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TORENDIA

文芸的な、余りに文芸的な

本文約49,700字 ・ 読了時間 約100分

あらすじ(AIが作成しました)

「話」らしい話のない小説の存在意義や、谷崎潤一郎による小説形式への議論に対する見解を綴る。また、近代芸術が持つ大量生産の要求と質的低下の問題を背景に、代作という手法の可能性について考察する。さらに、芸術が持つ人間の情熱を鎮める「去勢力」に注目し、芸術と実行的な人生との関係性、そして文芸における極北の静寂について論じる。作家自身の創作観や当時の文壇の動向を通じ、芸術が持つ本質的な魅力と危うさを多角的に描き出す評論である。

芥川龍之介

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一 「話」らしい話のない小説

僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……

しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にある筈である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。

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