中国文化をちゃんと理解したい
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あらすじ(AIが作成しました)
日本の文学者が中国文化をいかに理解し、また誤解してきたかを論じる。夏目漱石や鴎外らと比較し、現代の作家が中国の生活や精神性に対して抱くエキゾチシズムや偏見を指摘する。中国人の気質や金銭観に関する既存の言説を批判的に検討し、歴史的な視点を欠いた従来の文学的アプローチを省みる。地理的に近接しながらも相互理解が不十分であることを認め、誠実かつ正確な新しい文化理解の必要性を強く訴える論考である。
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日本の文学者では、夏目漱石や鴎外などまでが、自身の文学的教養の中に中国文化のあるものを消化していたのだろうと思う。私たちの時代になると、伝統的な中国の文物については教養的に不足して来ているし、実際の生活感情からも遠くなって感情表現の手法としての影響もなく、「古い支那」に対して或るエキゾチシズムがのこされている程度である。新時代の中国の生活について最も多く知るべき筈でありながら、今日まだ十分知っていない。知るための十分な便宜をも欠いている。中国の文化に対して新しい理解と接近の機会をもち得るのはこれからであろうと、期待している。
私一箇の心持から云っても、中国の文化の様々な特色には強い興味と魅力を感じている。中国の建築・食物・色彩感・日常的商取引の道徳習慣など片々とした知識を材料として考えただけでも、中国の性格が自然に対しても積極的であり、人間の意志を表明すること憚りない傾向を示していることが興味ふかい。
在来の所謂支那通の人の書くものを読むと、中国の民衆の心持の中に一番つよくあるのは、昔、ロシア人の気質は何につけてもニーチェヴォ(どうでもいいさ。又はかまいやしない)であると云われていたと同じような一種のどうでもよい主義の諦観であると語られているのであるが、果してそれはどうだろう。やはり固定的なものとしては看られないと思う。
木々高太郎という人は周知の如く科学者であるが、その探偵小説の中で、中国人は金でころばすのが一番早い。日本人はそう行かない、という意味を書いている。これも果してどういうものであろう。
特徴のように外部から見られている諦観や金銭尊重の傾向も、それを誇大に固定して見れば、一つの偏見になる。これまでの中国の庶民生活の波瀾の歴史を眺めれば、そのよって来たるところも察せられなくはないのである。