本文へ移動
TORENDIA

大菩薩峠

本文約236,600字 ・ 読了時間 約474分

あらすじ(AIが作成しました)

米友が木柱をかつぎ田園を抜けて森へ向かう中、屋敷跡では子供たちが三ツ目錐の殿主膳の元に集まり遊び興じる。一方、法師の弁信は、かつて想いを寄せたお雪の消息を求め、困難な道のりの先にある白骨谷を目指して旅を続ける。本作は、諸国を流浪する人々の行く末と、複雑に絡み合う人間の営みや心の機微を、尾張から始まる長大な叙事詩として描き出している。

中里介山

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 279

年魚市は今の「愛知」の古名なり、本篇は頼朝、信長、秀吉を起せし尾張国より筆を起せしを以てこの名あり。

一

今日の黄昏、宇治山田の米友が、一本の木柱をかついで田疇の間をうろついているのを見た人がある。

その木柱は長さ約二メートル、幅は僅かに五インチに過ぎまいと思われます。

これを甲州有野村の藤原家の供養追善のために、慢心和尚がかつぎ出した木柱に比べると、大きさに於て比較にならないし、重量に於ても問題にならないものであります。

本来、米友の気性からいえば、道理と実力が許す限り、他人が七十二貫のものをかつげば、自分もそれをやれないとは言わない男ですが、単に、たれそれが材木をかついだから、お前も材木をかつがねばならぬという、無意味な競争心と、愚劣な模倣のために、焦躁する男ではありません。

第一、慢心和尚が、いつなんらの目的で、どれほどの木柱をかつぎだしたか、そんなことを旅中の米友が知っているはずがなし、それに地形そのものが、また大いに趣を異にして、あちらは、四方山に囲まれた甲府盆地の一角であるのに、これは、田野遠く開けて、水勢甚だ豊かに、どちらを向いても、さっぱり山というものは見えないようです。

それは黄昏のことで、多少のもやがかかっているとはいえ、どの方面からも、山気というものの迫り来る憂いは更にないから、どう考えても、ここ十里四方には、山らしい山というものは無いと思わねばなりません。

その代り、水の潤沢であることは疑いがないらしい。そうかといって、常陸の霞ヶ浦附近や、出雲の宍道湖畔のように、水郷といった趣ではないが、大河が四境を圧して、海と持合いに、この平野がのびているという感じは豊かである。

見渡す限りは、その大河の余流を受けた水田で、水田の間に村があり、森があり、林があり、道路があって、とりとめのない幅の広い感じを与えないでもない。

米友が件の田疇の間を、木柱をかつぎながら、うろついて行くと、楊柳の多いところへ来て、道がハッタと途切れて水になる。

中里介山の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本