大菩薩峠
本文約163,500字 ・ 読了時間 約327分
あらすじ(AIが作成しました)
藤原の伊太夫は、湖南湖北での百姓一揆勃発による動揺と不安から逃れるため、お角らと共に近江の湖上へ船出する。航行中、湖面に流れる女物の帯や酒器を見つけ、一行は異様な気配に包まれる。幕末から明治維新へと向かう動乱の時代、様々な立場の人物が夢や現実に生きる中で、琵琶湖で救われた竜之助や、無名丸で太平洋へ漕ぎ出した駒井甚三郎たちの運命が交錯する様を描く。本作は時代の大波に翻弄される人々の姿と内面を重層的に綴る長編物語である。
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一
同じその宵のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向って船出をした甲板の上に、毛氈を敷いて酒肴を置き、上座に構えているその人は、有野村の藤原の伊太夫で、その傍に寄り添うようにして、
「御前様、光悦屋敷とやらのことは、もう一ぺんよくお考えあそばしませ、大谷風呂の方は、どちらへ転びましても結構でございますがねえ」
それは女軽業の親方のお角でした。
女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く頷いて、
「それは、どちらでもいい」
と答えました。そうすると、同じ取巻の町人体なのが引きついで、
「いや、山科の光悦屋敷の方も、ぜひお引取りなさいませ、今の御時世でございませんと、寝かして置きましても、持主がちょと手放す気にはなれません、あれだけの由緒あるお屋敷は、さがし求めた日には、なかなか出物があるわけのものではございませぬ、万一、売主がございましても、買切れる主がございません、買いたいと申しましても、二度と売主は出ますまいかと存じまする、お大尽のお耳に入りましたのが、全く以て千載一遇――売主のためにも、お買取りの方にも、また古えの光悦様のためにも、三方への功徳になるかと心得ておりまする」
おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。