生前身後の事
本文約40,200字 ・ 読了時間 約81分
あらすじ(AIが作成しました)
数え年五十を迎えた中里介山が、遺言の形をとって著作権の管理や蔵書の処遇、自身の葬儀や埋葬の方法、そして自身の執筆活動に関する回想を綴る。著作の独立した出版や死後の興行禁止といった権利保護の方針、紀念館のあり方、あるいは墓石を立てて肉体を尊重する独自の葬送観を示す。あわせて、自身の同時代人であるトルストイやユーゴーなどの人物評、および新聞連載をめぐる都新聞との絶縁に至るまでの経緯を論じる随筆である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
小生も本年数え年五十になった、少年時代には四十五十といえばもうとてもおじいさんのように思われたが、自分が経来って見るとその時分の子供心と大した変らない、ちっとも年をとった気にはなれない、故人の詩などを見ると四十五十になってそろそろ悲観しかけた調子が随分現われて来るけれども、余はちっとも自分では老いたりという気がしないのみならず、それからそれへと仕事が出て来てどうしてどうしてこれからが本当の仕事ではないか、と、思われる事ばかりだ、瘠我慢にいうのではない、自分は五十になって老いたりという気がしないのみか若いという気もしない、子供の時と特別に変ったようにも思われない、今の自分としては殆んど年齢を超越してしまっている。
これは一つは自分が未だ嘗て家庭というものを持たず、自分の肉体の分身に対する愛情という経験が無いというのも一つの理由であるかもしれない、何れにしても自分はまだ死に直面しているという気分は毛頭ないけれども、ここに五十になった紀念の意味で少々死後のことを書いて置いて万々一の用心にし、心のこりを少しでも少なくして置きたいものと思うことは無用でもあるまい。
利休が旺んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。
そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。