琴の音
本文約3,000字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
母に捨てられ、父を失った渡辺金吾は、世間から盗賊として疑われ、疎外感の中で荒んだ心を抱えて生きている。ある雨の夜、森江しづが奏でる琴の音を耳にした金吾は、その清らかな調べに触れて初めて抱いた感情に戸惑う。かつて恨んだ母への情慕や、捨て難い生への執着を呼び覚まされた青年が、自身の荒廃した心と向き合い、新たな道を見出そうとするまでを描く。
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(上)
空に月日のかはる光りなく、春さく花のゝどけさは浮世万人おなじかるべきを、梢のあらし此処にばかり騒ぐか、あはれ罪なき身ひとつを枝葉ちりちりの不運に、むごや十四年が春秋を雨にうたれ風にふかれ、わづかに残る玉の緒の我れとくやしき境界にたゞよふ子あり。
母は此子が四つの歳、みづから家を出でゝ我れ一人苦をのがれんとにもあらねど、かたむきゆく家運のかへし難きを知る実家の親々が、斯く甲斐性なき男に一生をまかせて、涙のうちに送らせん事いとほし、乳房の別れの愁らしとても、子は只一人なるぞかしと、分別らしき異見を女子ごゝろの浅ましき耳にさゝやかれて、良人には心の残るべきやうもあらざりしかど、我が子の可愛きに引かれては、此子の親なる人をかゝる中に捨てゝ、我が立さらん後はと、流石に血をはく思ひもありしが、親々の意見は漸く義理の様にからまりて、弱き心のをしきらんに難く、霜ばしら今たふれぬべきを知りつゝ、家も此子も、此子の親をも捨てゝ出でぬ。
父は一人ゆきたることもあり、此子を抱きて行きたることもあり、これを突きつけて戻りたることもあり、我れは此まゝ朽はてぬとも、せめては此子を世に出したきに、いかにもして今一たび戻りくれよ、長くとには非ず今五年がほど、これに物ごゝろのつきぬべきまでと、頼みつすかしつ歎げきけるが、さりとも子故に闇なるは母親の常ぞ、やがては恋しさに堪えがたく、我れと佗して帰りぬべきものをと覚束なきを頼みて、十五日は如何に、二十日は如何に、今日こそは明日こそはと待つ日空しく過ぎて、はては尋ね行きたりとて、面を合はする事もなく、乳母にや出けん、人の妻にや成りけん、百年の契りは誠に空しくなりぬ。