尹主事
本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
町の北にある荒蕪地の小屋に住む尹主事は、その一帯を自分の所領と定め、毎日出かけるふりをして暮らしている。日本で羽二重を買って儲ける夢を語り、正体不明の自信を漂わせる主事の日常は、ある日、自分の土地が工場の建設予定地となったことで一変する。自身の版図が他者に占領され、生活の場が変容していく中で、主事は名札を抱えて丘の上へ退避し、衰弱しながらも虚構の妄想を語り続け、かつての日常とは異なる狂気的な世界へと没入していく様子を描く。
💰 この本を応援する(投げ銭)
町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。
尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。
そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよれのゲートルを卷き付ける。擔具を背負うと、再び出て來て、例の名札を十分程もじっと見つめ、それから踵をかえしてすたこらとさも急がしげに町へ出掛けた。――だが未だかつて人は彼の働いているのを見たことがない。
「今日はどうしたね」と夕方つい出會いがしら問いかけでもしたら、彼はにたにたしながら胡麻鹽の蓬頭をくさくさ掻き立てる。「なあ、全く不景氣でしてな」いつかも尹主事は私の家にあたふたとやって來て書室の前に立ち現れた。そして何かを切り出しにくそうにもぞもぞして手を揉んでいた。どうしたのかと訊いてみると彼は莞爾として微笑んでから、日本に渡ったら羽二重(彼はそう發音した)の見切品を買取って貰えぬだろうかと何度も腰を曲げて叩頭した。誰某が日本内地からそれを直接取り寄せて大儲けをしているからと得意然に。
「わっしも一つ儲けて城内に家を建てて移らんことにはなあ、ひっひひひ、ひっひひひ」と思うと、そのことはもう忘れ去ったように、今度は淫らなものを見た坊主のごとくひとりえへらえへらと笑い出した。そこで突然面長と駐在所の巡査とどちらが上だろうかと質ねよるのである。つい苦笑すると主事はいよいよ愉快になって、それみろ答えられんだろうと言うみたいに私を指差しひっくり返りそうにけらけら悦びながら歸って行った。
――それから野ずらに陽炎が緑にけぶる頃のことである。彼は小屋の壁に寄りかかり肌をさらけ出しで虱をとっていた。暖い陽光は彼の六十年來の垢肌をくすぐったくうずうずさせる。それに大きな奴が何匹も威勢のいい所を見せて炭のような指先に白く乘り出してきたので彼は全くいい氣嫌になっていた。
その時嗄れ聲が近くに聞えてきたのである。