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TORENDIA

二つの途

本文約50,700字 ・ 読了時間 約102分

あらすじ(AIが作成しました)

重い病床にある岡部啓介と、彼を献身的に看病する信子の姿を描く。啓介は死の影に怯えながらも信子へ残酷な問いを投げかけ、自身を縛り付ける不安と苛立ちに葛藤する。対する信子は、啓介との関係に生じる逃れられない繋がりを自覚し、深い悲しみを抱えながら看病を続ける。やがて入院という新たな転機を迎え、二人の周囲には別れの予感と張り詰めた空気が漂う。極限の状況下で交錯する、生と死、そして愛憎の心理を静かに映し出す。

豊島与志雄

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一

看護婦は湯にはいりに出かけた。

岡部啓介はじっと眼を閉じていた。そして心の中で、信子の一挙一動を追っていた。――彼女は室の中を一通り見渡した。然し何も彼女の手を煩わすものはなかった。火鉢の火はよく熾っていた。その上に掛ってる洗面器からは盛んに湯気が立っていた。床の間にのせられてる机の上には、真白な布巾の下に薬瓶が並んでいた。机の横には、吸入器や紙や脱脂綿や其他のものがとりまとめて置いてあった。草花の鉢の土も適度に湿っていた。終りに彼女は、病人の額にのせられてる氷嚢にそっと触ってみた。指先に冷りとした感触を受くると同時に、氷の塊りが触れ合う軽い音がした。彼女はあわてて手を引込めた。それから枕頭の硝子の痰吐を覗いた。円く塊まって浮いている痰の中に、糸を引いたような血の条が交っていた。

彼女が眼を挙げると、彼女の顔を見つめている啓介の大きな眼に出逢った。

「あら、眠っていらしたんじゃないの?」

「いや。」と啓介は答えた。

「先刻から?」

啓介は首肯いた。

「看護婦さんが出かける時から?」

啓介はまた首肯いた。それからこう云い出した。

「あの看護婦は実に現金だね。僕の容態が少しよくなると、看護服をぬいで普通の着物ばかり着ているが、また容態が悪くなると、看護服を着出すからね。この一週間許りは看護服ばかり着ている。」

信子は庭の方へ眼を外した。縁側の障子にはまってる硝子で四角に切り取られた庭は、陰欝に曇った寒空の下に荒凉としていた。雪と霜とに痛んで枯れはてている芝生の間には、湿気を帯びた真黒な土が処々に覗き出していた。

「お前は、」と啓介は云った、「泣いてるね。」

「いいえ。」と信子は答えた。そして鼻を一つすすって、彼の方を振り向いた。

「では眼を大きく開けてごらん。」

彼女はちらと微笑の影を口元に浮べて、眼を大きく見開いた。すると急に、眼の底が熱くなって、大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。彼女は其処につっ伏してしまった。

「そら泣いてるじゃないか。」

彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。

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