本文へ移動
TORENDIA

川端柳

本文約2,600字 ・ 読了時間 約6分

あらすじ(AIが作成しました)

刑務所長から聞いた、窃盗囚の「欲しい」から「惜しい」へと変化する心理を綴る。語り手は、その話を耳にした夜、A老人と街で万引きを繰り返す不思議な夢を見る。目覚めた後、語り手は夢の中の感覚と囚人の心理を重ね合わせて思いを巡らせる。一方、A老人は語り手の夢の話に呼応して、かつて料亭のお上さんの追憶のために詠んだ漢詩のエピソードを語る。物欲と心理、そして過去の記憶を巡る人々の交錯を描く随筆である。

豊島与志雄

速度
🎧 川端柳 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

或る刑務所長の話に依れば、刑期満ちて娑婆に出た竊盗囚が再び罪を犯すのは、物に対する「欲しい」という感情からよりも、「惜しい」という感情からのことが多いという。「欲しい」という感情はまだ押えることが出来る。然し「惜しい」という感情はどうにも出来ないとか。

刑務所から娑婆に出た喜びは、自由の喜びという一言でつくされる。何をしようと何処へ行こうと全く自由なのだ。「自由の身となった、自由の身となった、」そう彼は心に叫びながら歩き廻る。そして目につく凡てのものが、如何にも美しい輝きを帯びている。まだ頭の中に残ってる刑務所内の生活、厳めしい建物、陰欝な空気、看守の顔、そういうものに対照して、何と娑婆の世界が輝いてることか。その輝かしい中に、一際輝いてるもの、例えば、ダイヤの指輪が、彼の注意を惹きつける。彼は本能的にその方へ寄ってゆく。欲しいなと思う。まではまだ抵抗出来るけれど、次の瞬間には、惜しいなと思う。盗めば盗めるのに惜しいなと思う。俺が盗まなくても、どうせ誰かが盗むのだろう――(盗人の心理の面白さよ)――誰かが盗むだろう、むざむざと人に盗ませて……実に惜しいな、と思う。そこまでいくと、もう抵抗出来ない。何か偶然の障碍が起らない限りは、彼はそのダイヤの指輪を盗む。

そういう話を聞いた時、これは面白いと私は思った。それが頭に残ってたせいかどうか……不思議な夢をみた。

或る晩、Aという老人がひょっこりやって来た。大黒帽を被って、柄頭に鳩の彫刻のついている杖をついて、白い粗髯をなでる癖のある、普通に云えば剽軽なよく云えば脱俗的な老人である。その老人が、玄関につっ立って、皮肉なような擽ったいような笑顔で、にこにこしている。――(と、これからは夢物語である。)

「どうしたんです。」と私は尋ねた。

「なにね、いま万引をしてきたんだよ。」

「万引。」

「ああ、面白かったよ。だが、一寸危いと思うんだが……。」

私はあたりを見廻した。誰もいない。玄関が夕方のように妙に薄暗い。気がついてみると、老人は変に憂欝な顔笑をしている。

「じゃ一緒に行きましょうか。」

そして私達はこっそり家を出た。

豊島与志雄の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本