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TORENDIA

ものの影

本文約8,700字 ・ 読了時間 約18分

あらすじ(AIが作成しました)

夜の葦の茂みで死気のような少年の人影に出会った島野彦一は、衝動的に殴りつけ、石を投げつけて殺害してしまう。事件は少年の不審な怪死として報じられ、真相は藪の中となる。近所に住む田中が葦の茂みを焼き払おうとして騒動を起こすが、彦一は孤独を抱えたまま、自由を求めてその地を去る。本書は、ある殺人を巡る内面的な葛藤と、謎を残したまま日常へと収束していく人々の姿を描く。

豊島与志雄

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池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。

この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は宙に浮きがちだった。微風もなく、夜気は冴えていた。

松の近くまで来て、彦一ははたと足を止めた。なにか、妖気に触れたかのような感じである。

道路からそれて、葦の茂みの中に、いや、茂みの表面に、和服姿の少年らしい人影が立っていた。月の光りはないが、星明りなのか、透いて見える薄暗がりに、その人影がくっきり浮いていた。彼は、彦一がやって来るのを認め、道を避けて佇み、通りすぎるのを待ってるのか、或るいは、出会いがしらに、ひょいと横へ退いたのか。それはとにかく、足音一つせず、葦の葉擦れの音もしなかった。葦の茂みはひそと静まり返っていて、その表面に、人影だけが、何の厚みもなく、紙のように平べったく、浮き出してるのである。

とっさに、彦一はぞっとした。鬼気とか、妖気とか、もののけとか、そんなものに触れた感じだ。彼は戦時中、召集されて、北海道で軍隊生活をし、訓練の間には、深山幽谷で孤立した数時間を闇夜のうちに過したこともあるが、嘗て、ぞっとする不気味さを経験したことはなかった。恐怖とか驚駭ならば、まだよいが、へんな不気味さは、どうにもいけない。而もそれが、沼だの葦の茂みだの空襲の焼跡だのがあるにしても、近くに人家が見える東京都内で起ったのだ。

不気味なのは、その人影が、なまの人間の姿とは見えないことだった。さりとて、幻燈で映し出された像でもない。影の微粒子が寄り集まり凝り固まって、謂わば死気に生きてるのだ。葦の茂みの中を動き廻っても、葉擦れの音さえ立てないだろう。

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