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TORENDIA

幻覚記

本文約4,700字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

著者自身の幼少期の記憶、親戚との散歩、青春時代の理想の女性との遭遇、深夜の散歩での思考体験を綴る。記憶にあるはずの事柄が現実と食い違い、実在しないはずの時計や幻影が現れる様を描く。過去の体験や夢、あるいは脳内に浮かぶイメージと現実の境界が曖昧な中で、親への思慕や永遠の恋人への憧憬、孤独な都市の深夜における真空のような感覚を内省的に追い求め、記憶の不確かさとそこに宿る感懐を浮き彫りにする随筆である。

豊島与志雄

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🎧 幻覚記 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

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一

筑後川右岸の、平坦な沃野である。消く水を湛えた川べりに、高い堤防があって、真直に続いている。堤防の両側には、葦や篠笹が茂っていて、堤防上の道路にまで蔽いかぶさり、昼間も薄暗く[#「薄暗く」は底本では「薄晴く」]、夜は不気味である。

その堤防の上を、まだ夜明け前の頃、私は母と二人で歩いていた。私は七八歳だったが、別に恐さも不気味さも感ぜず、自分の村から半里余りも来たろうというのに、足も弱っていなかった。母と二人で、急いで歩いていった。

肺病でねている父のために、薬を買いに行くのである。四里ほどはなれた或る町に、肺病に特効の秘薬があって、その薬をのめば、体内の病毒悪血を忽ちに排出してしまうのだ。然し父は、その薬の服用を承諾しない。母と私とは、父に内証でその薬を買いに行くので、夜中に出かけて、午頃までには帰って来なければならない。

川の堤防にさしかかった頃、もう夜が明けそうだった。道を急がねばならなかった。

人通りもなく、風もなく、生きものの気配もなかった。堤防の一方は深い川で一方は広い水田であるが、それらは目に見えず、葦や篠笹の茂みの中は、トンネルのようだった。茂みの葉先がさらさらと袖に触れ、時々、蜘蛛の糸が顔にかかる。でも私は、母と一緒なので恐くなかった。提灯もつけず、ぼーとした星明りをたよりに、道を急いだ……。

そのことが、ただそれだけのことが、私の脳裡にはっきり刻みこまれていて、時々思い出されるのである。

然し、事実は違うようだ。肺病の秘薬のことなど、先年帰国の折、人に聞いたが分らなかった。また父は、私の七八歳の頃には健康で、肺病になったのはずっと後年である。第一、母と二人で薬買いに夜中に出かけることが、既におかしい。

それならば、私は右のことを、夢にみたのであろうか、くり返し夢にみたのであろうか。或は幾つもの夢が集まって、右のような幻覚が出来上ったのであろうか。

葦や篠笹の茂った堤防は、現実に存在する。私の生れた農村から半里余りのところに、平野の中に真直に長く続いている。昼間もあまり人通りがなく、何か兇事の噂でも起りそうなほど、淋しい場所である。

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