戯作者文学論
本文約15,300字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
長編小説「恋を探して」の書き出しにあたる「女体」を執筆中の作者が、日々の創作過程や苦悩、自身の文学観を綴った日録。戯作者と自称する作者は、既存の長編小説における知性のあり方に疑問を抱き、人間関係と肉体が伴った物語の構築を目指す。本書は、一組の夫婦の心のつながりを模索する中で、執筆意図やプロットを決めずに筆を動かす作家の日常と、創作という行為そのものに対する自問自答を記録する。
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この日記を発表するに就ては、迷つた。書く意味はあつたが、発表する意味があるかどうか、疑つた。
この日記を書いた理由は日記の中に語つてあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういふ風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけてゐない。私のやうにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きてゐる人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。
私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識してゐたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかといふやうなことを論ずるだらうと考へた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違つてゐるといふやうなことは、然し、どうでもいゝことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知つてゐるかどうか、それすらが大いに疑問なのである。
だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑つたのだが、然し、考へてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。
そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するといふやうな意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。
平野君からの注文は「戯作者文学論」といふので、私は常に自ら戯作者を以て任じてゐるので、私にとつて小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかつたのではないかと思ふ。
私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であつて、いはゆる戯作者とはいくらか意味が違ふかも知れない。然し、さう、大して違はない。私はたゞの戯作者でもかまはない。私はたゞの戯作者、物語作者にすぎないのだ。たゞ、その戯作に私の生存が賭けられてゐるだけのことで、さういふ賭の上で、私は戯作してゐるだけなのだ。