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TORENDIA

第二芸術論について

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

俳句や短歌を第二芸術と呼ぶ議論に対し、芸術に第一や第二の区別は存在しないと反論する。俳句も短歌も詩の一形式であり、芭蕉や啄木のように詩の本質を理解して表現するならば、当然芸術として成立する。一方で、詩魂を持たず伝統的な形式や型をなぞるだけの俳人や歌人こそが芸術家ではないと指摘する。本作は、芸術を主義や形式の枠組みで限定する狭量さを否定し、人間本来の自由な創作のあり方を論じる。

坂口安吾

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近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでゐないから、俳句や短歌が第二芸術だといふ意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。

むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまつてるぢやないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。

俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。外国にも、バラッドもあればソネットもある。二行詩も三行詩も十二行詩もある。

然し日本の俳句や短歌のあり方が、詩としてあるのぢやなく俳句として短歌として独立に存し、俳句だけをつくる俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、そして俳人や歌人といふものが、俳人や歌人であつて詩人でないから奇妙なのである。

外国にも二行詩三行詩はあるが、二行詩専門の詩人などゝいふ変り者は先づない。変り者はどこにもゐるから、二行詩しか作らないといふ変り者が現れても不思議ぢやないが、自分の詩情は二行詩の形式が発想し易いからといふだけのことで、二行詩は二行の詩であるといふことで他の形式の詩と変つているだけ、そのほかに特別のものゝ在る筈はない。

俳句は十七文字の詩、短歌は三十一文字の詩、それ以外に何があるのか。

日本は古来、すぐ形式、型といふものを固定化して、型の中で空虚な遊びを弄ぶ。

然し流祖は決してそんな窮屈なことを考へてをらず、芭蕉は十七文字の詩、啄木は三十一文字三行の詩、たゞ本来の詩人で、自分には十七字や三十一字の詩形が発想し易く構成し易いからといふだけの謙遜な、自由なものであつたにすぎない。

けれども一般の俳人とか歌人となるとさうぢやなくて、十七字や三十一字の型を知るだけで詩を知らない、本来の詩魂をもたない。

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