退歩主義者
本文約9,600字 ・ 読了時間 約20分
あらすじ(AIが作成しました)
並外れた食欲を持つ馬吉は、戦後の社会に馴染めず、文明から退化することこそが真の文明であるとする独自の思想「退歩主義」を掲げる。親から押し付けられた結婚生活にも限界を感じた彼は、浅草の狸劇団に身を寄せ、下男として働き始める。しかし、極端な空腹と追い詰められた生活の中で、退職手当の支払いを巡り劇団の支配人と対立。その極限状態において、自らの思想を叫びながら暴発する姿を描く。
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馬吉の思想は退歩主義というのである。猫もシャクシも実存主義とか共産主義などゝ月並な旗印をかゝげている時世に、とにかく誰の耳にもきゝなれない退歩主義という一流を編みだしたところは、馬吉タダの鼠に非ず、と申さなければならない。
馬吉というのは勿論アダナで、大食いというところからきている。五尺四寸五分、十五貫といえば、あたりまえの日本人で、顔形に異形なところはないのだが、因果なことに、並の健康人の三人前ぐらい食わなければ身が持たないという時世に向かない胃袋の持主である。当年二十五歳。そこで彼の職業は、という段になると、説明がいる。
彼は二十の年に学徒兵で出征して、日本のどこかで専ら穴掘りをやっているうちに戦争がすんだ。浅草の生家へ戻ってみると焼野原で、たった一人生き残った母親は、いつのまにやら屋台店のオデン屋の女房に早変りしていた。
「オヤ、お前かえ。無事で帰ってきたの。こっちは、みんな死んじゃったよ」
とオフクロは面白くもなさそうな顔をあげ、ちょッと仕事の手を休めて言ったゞけであった。
馬吉は見上げたオフクロだと思った。別にママ母ではないのである。ちょッと色ッポイところもあるよ、相当な美人じゃないか、と、そぞろに感じたのであった。
新しいオヤジとオフクロは大変仲がよろしい。馬吉などは眼中にない。然し、ともかく浮世の義理によって、無給の奉公人としてコキ使う。馬吉は、アッパレなものだ、と新しいオヤジに敬服の念をいだいたが、慌てたのは新しいオヤジとオフクロであった。穴掘り作業の兵隊生活で、どういう鍛錬を経てきたのか明かでないが、馬吉の食慾が凄い。商売物だから、隠すわけに行かない。二六時中、監視を怠らぬというわけにも行かない。馬吉は遠慮なく手を突ッ込んで、いつのまにやらゴッソリ食い減らしてしまうのである。
買い出しにやれば、買った物を食い減らしてくるとか、支那ソバを五杯食ってトウモロコシを十本がとこ噛ってくるとか、それで当人は大いに自粛しているつもりなのである。
「ほんとはトンカツが食いたかったんだけど、あいつは高いからさ。ずいぶん我慢しちゃった」
というグアイである。