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TORENDIA

純粋演劇の問題

本文約11,700字 ・ 読了時間 約24分

あらすじ(AIが作成しました)

演劇の理論が直面する困難や近代演劇運動の現状を考察し、戯曲を文学の手段として従属させる風潮に疑問を呈する。演劇の本質主義を標榜し、舞台上の人間が発する声と動作に注目する純粋演劇の可能性を論じる。先駆的な演劇家コポオの姿勢を参考に、音楽を味わうように舞台上の瞬間的な美を感じ取る観客の育成と、演劇それ自体の生命を取り戻す必要性を説く。

岸田國士

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一

あらゆる芸術の部門を通じて演劇の理論といふものは、特にこれを実際に「試み」る機会が少く、従つて、その理論に確乎たる根柢を築くのに容易でない事情にある。

所謂「近代劇運動」の史的考察が、この意味で絶えずその中心を見失はれようとする傾きがあることも、われわれは既に気づいてゐるのである。

十九世紀後半に於ける諸芸術の「純化運動」に、演劇も後れ馳せながら参加した事実は、世人も等しく認めてゐることと思ふが、この「手入れ」は、演劇といふ庭に限り、それがあまりに荒れ果ててゐたためと、また、あまりに木石の類が多すぎたために、ほかの庭よりもずつと遅れてしまつた観があり、漸く一と通りの草むしりを終つた程度で、早くも、職人たちは仕事を投げ出してしまつた。

詩、小説は固より、造形美術、音楽、舞踊、さては、まだ生れて幾らにもならぬ映画の方面でさへ、あらゆる社会層への食ひ込みを目ざす一方、かの「純粋」の名を冠せられる真摯な運動が、今日では、立派に、存在理由をもつてゐるに拘はらず、独り演劇の部門――戯曲をも含めて――に於てのみこの運動が中途半端のまま葬り去られようとしてゐる現象は、どうしたものであらう。

実際、私の知る範囲では、「演劇の純化」を標榜するフランス自由劇場以後の諸運動乃至その指導者も、未だ嘗て、「純粋演劇」といふ問題には触れてゐないやうである。僅かに、ゴオヅン・クレイグが、その理想家的感傷をもつて、「演劇の独立」を叫んではゐるが、その実、「演劇をして演劇のみの演劇たらしめる」主張は、単に、舞台より「文学」を排除するといふ空漠たる目的のために、却つて、演劇の生命を稀薄にし、而も実際は、常に、優れた文学的作品のみに頼るといふ自家撞着に陥つたことからみても、この理論は最早、空論に終らうとしてゐるのである。

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