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TORENDIA

翻訳について

本文約1,500字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

翻訳という行為は、翻訳者自身の研鑽であり、原著を深く読み込み自らの日本語を見つめ直す過程であることを綴る。翻訳者の文体が不要という通説を否定し、原文の味を日本文で再現する試みではなく、一種の翻案としての美の置き換えという純文学的営みこそが重要であると論じる。併せて、個々の作家の文体や特徴に触れつつ、日本語で言葉を扱うことの難しさや、翻訳という作業に伴う文学的挑戦の本質について考察を述べる。

岸田國士

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🎧 翻訳について / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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翻訳といふ仕事は、いろいろ理窟のつけ方もあるだらうが、大体に於て、翻訳者自身のためにする仕事なのである。翻訳を読んで原作を云々するのは非常に危険だといふやうなことも云へるし、また翻訳は一つの文化事業であるといふやうな口実もあるが、翻訳そのものは金になるならないに拘はらず、誰でもやつてみるといいのである。

翻訳するといふことは、原書を少くとも十遍繰り返して読むことである。

翻訳をやつてみると、自分の語学力の底が知れるのである。

翻訳をしながら、おれはこんなに日本語を知らないのかと思ふだけでも、たいへんな薬になる。

最初一度読んで面白かつた本が、翻訳をしながら、或はしてしまふと、つまらなくなる場合がある。大した代物ではなかつた証拠である。

出来上つた翻訳を読んでみて、原文の面影が伝へられてゐるかどうか、そんなことはわかるもんぢやない。わかるのは、翻訳の文章がうまいかまづいかである。

いろいろの作家のものを翻訳するのに、その翻訳者が、彼自身の文体をもつてゐることは、却つて邪魔であるやうに考へられ易いが、決してそんなことはないと思ふ。

翻訳の理想は、意味を正確に捉へる以上に、日本文で原文の味ひを出すことにあるとされてゐるやうだが、それも、ただ、さう思はせるだけのことで、日本文で、例へば仏蘭西文の味ひなど出せるものではない。

モンテエニュならモンテエニュの文体といふものは、仏蘭西文でなければならないものなのである。偶々、モンテエニュを熱愛し、深く理解し、その精神と風貌とを真近に感じ得た翻訳者関根秀雄氏の見事な「文体」が多少の扮装を施したにせよ、原著者の精神と、風貌とを「日本流に」髣髴と描き出す力をもつてゐたのである。

文章のリズムと、その正確なイマアジュなるものは、断じて翻訳には適せぬものである。ただ、甲の美を乙の美に置き換へる技が、翻訳の純文学的営みなのではないかと思ふ。これは、それ故、翻訳に於ける一種の翻案的部分とも云へるのである。

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