本文へ移動
TORENDIA

一つの挿話

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

亡くなった林芙美子との関係を回想し、著者自身が経験した京都でのある挿話を綴る随筆である。かつて文芸春秋社の講演会で地方を巡る旅をした際、町を散歩する著者に同行した彼女は、妻へのお土産選びを積極的に手伝う。その際に選ばれた品を妻へ渡したことで生じた家庭内での気まずいやり取りを通じ、著者自身の失敗と、配偶者への贈り物における微妙な心持ちについての考察を収める。

岸田國士

速度
🎧 一つの挿話 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

亡くなつた林芙美子さんのことについて何か書けといふ注文である。なんといつても、これは少々筋ちがひのやうに思はれるが、編集者Yさんは非常に物覚えがよく、私がある時、映画の試写会のあとで林さんと夕食を共にしたといふ話を、私から直接聞いたことがあるから、そんなに懇意な間柄なら、書けない筈はないと言ふのである。

ところが、私は、Yさんにそんな話をした覚えはさらさらなく、まして、林さんと一緒に食事をしたことなどは、何かの会以外にはないのだから不思議である。Yさんが作り事を言ふ筈はないし、私も、そんなデタラメを喋る興味も必要もないとすると、私が、なにもかも忘れてしまつてゐるとしか考へられない。この方がむしろ大問題である。

そんなわけで、林さんと私との面識の程度を、もしはつきりさせなければならぬとすると、約二十年間に前後三回(私の記憶を信じるとして)会つたきりである。

最初は、徳田秋声さんの何かのお祝ひの会の時に、誰かに紹介され、その次ぎは、文芸春秋社主催の講演会で、これはたしか一週間に亘つて関西各地を廻る間、いはゆる行を共にした。かれこれ十五年乃至二十年も前のことである。

最後は、ついこの間、今日出海君のお祝ひの会に出て、偶然林さんと隣合せの席につき、しばらく雑談をした。

この程度の交渉で、私が特に林さんの思ひ出を語る資格があらうとは思へぬが、強ひて語るとすれば、また、それはそれで、私といふ人間の見た林さんのポルトレにはなるかも知れない。

初対面の時は別に口を利き合つたわけではなく、なんでも、だいぶん席が乱れて来てから、林さんが妙な恰好の踊りをはじめ、その頃の私は女文士の勇敢さに度胆をぬかれたが、それよりも、その踊りをまたかといふ風に横目で眺めてゐる秋声老の、なんとも言へぬ笑ひ顔がまだ眼の底に残つてゐる。

岸田國士の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本