「悪」の同意語
本文約39,200字 ・ 読了時間 約79分
あらすじ(AIが作成しました)
小田原から東京へ移り住んだ男は、母や妻の周子との間で互いに愚かな優越感や陰険な感情を抱きながら、歪な人間関係を続けている。母との確執や周子との罵り合いの中で、自らの惨めな姿を客観視しつつ、卑屈な優越感に浸る。彼は辞書で「悪」の同意語を眺めては自身の心と照らし合わせ、文学的な気障さや空想を抱えながら、相変わらず母の支配的な干渉と冷淡な関係の渦中で自意識を弄び続けている。
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一
小田原から静岡へ去つて、そこで雛妓のお光とたつた二人だけで小さな芸妓屋を始めたといふ話のお蝶を訪ねよう――さう思ふことゝ、米国ボストンのFに、最近の自分の消息を知らせなければならないこと――。
この二つのことだけは、近頃彼が、自ら例へて冬籠りの地虫の心になつてゐる因循な頭に、いくらかの積極性を与へた。母や清親などゝ野蛮な争ひをした揚句、その儘周子と三歳の英一を伴れて東京へ来てしまつた彼だつた。
だが彼は、父が生きてゐた頃も母とは幾度も争ひはしたことがあるので、今度だつてそんなことでは憂鬱を感ずるどころではなかつた。母などとは、あんな騒ぎは忘れた顔をして、顔もあからめずに会へる気がした。苦い発作的の感情に、一時はカツとして向ツ肚をたてるが、根が安価な心の持主である彼だつたから、一瞬時後には呆然たる魚のやうにピツカリと洞ろな眼を挙げてゐるばかりだつた。恬淡ではない、狡くて、光りを知らない痴呆性に富んだ男に違ひないのだ。
いつもの通り彼は、午過ぎまで寝床の中に縮んで、痴想に耽つてゐた。
「もう、そろそろほとぼりも冷めた時分だらうから、小田原へも行つて見ようかな? 阿母がいくら頑張つたつて、親父の生きてゐる時分とはわけが違ふんだからなア!」
彼は、上向けに寝て図太く冷い微笑を浮べてゐた。
「ひとつ、威厳を取り戻して来てやらうか……」
悠々と彼は、煙草を喫した。襖が立て切つてあつたから、煙りは静かに天井まで延びて行つた。――(平気なものだ、何と落ちつき払つてゐることだらう。)
彼は、一杯含んだ煙りを、大きく口をあけてハア、ハア、と吐き出しながら漠然と胸の拡がる思ひに打たれたが、ふつと醒めて煙りの中に清親や母の姿をはつきり感ずると、忽ち胸は冷汗に充たされてしまつた。