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TORENDIA

やぶ入の前夜

本文約2,900字 ・ 読了時間 約6分

あらすじ(AIが作成しました)

五年目の正月を控え、故郷へ帰ることを心待ちにする奉公人の正吉は、床屋で髪を整えながら胸を高鳴らせる。幼い頃の奉公生活で、病気により帰郷を余儀なくされた親友の春どんとの絆を思い出し、再会を夢見て懸命に働いてきた。深夜の床屋で時刻を確認した正吉は、待ちわびた帰郷の朝が訪れたことを確信し、冷たい夜風が吹きすさぶ凍てついた街を、期待と喜びを抱きながら一心不乱に駆け抜けていく。

牧野信一

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🎧 やぶ入の前夜 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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バリカンが山の斜面を滑る橇のやうにスルスルと正吉の頭を撫でゝゆくと、針のやうな髪の毛はバラバラととび散つた。正吉は一秒一秒に拡がつてゆく綺麗な頭の地ををさへ切れぬ悦ばしい心で凝と鏡の中に瞶めて居た。正吉の心はたゞ嬉しさばかりに躍つてゐた。何日前から明日といふ日を待構えて居たことであらう。幾十遍同じやうな夢を見て暮して来たのだつたらう。愈々その夢がほんとに明日は実現されるんだもの……何時間かの後には輝かしい故郷に帰ることが出来るのだ。この頭を刈つてしまつて、夜が明けさへすれば五年目に会ふ懐しい家庭へ行くことが出来るのだ。父は何と云ふだらう、母は何と云つて迎へるだらう、たつた一人の妹はどんなに大きくなつたらう――尤もいつかの春、一家族の写真を送つてよこしたが、それは今更のことではないけれど、写真を撮るとなるとどうしてあんなにすましてしまふのだらう。まるでかうしなければ写すものではないといふ犯すべからざる規則でもある様に四角張つて、袴をはいたり紋付の羽織を着たりして看板のやうに固くなつてゐる。到底それが笑つたり泣いたりする動く人とは思はれない程すましたものだ。――写真を凝と眺めてゐると、それが親しみのある人物であればある程、正吉には名状し難い不思議な感情が涌いて来るのであつた。だから正吉は写真など貰ふと、却つてもう再び会ふことが出来ないやうな気がして、悲みの涌くことが多かつた。

「おや君の頭には傷があるんだね。どうしたのさ。」と床屋の若い者はバリカンを動かしてゐた手を止めて、鏡に写つた正吉の顔を見て云つた。

「えゝ――ちよつと……」と正吉はそれに答へようとしたが、何となく云憎さうに黙つて首を垂れてしまつた。若い者はそれ以上尋ねようともせず、又バリカンを動かし初めた。

――その写真を受取つた晩のことだつた。正吉は寝床にもぐつてからも長い間、袴をはいた父や紋付を着た母などの並んで写つた写真を見てゐたのだつた。

――ハツと思つて正吉は飛び起きた。と一所に正吉はゴツンと強く柱の角に頭をぶつつけた。で眼がさめた。夢を見たのだつた。

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