TRENDIA CLASSIC

科学批判の課題

三木清

1 / 16

”Ja, wie lcherlich! und doch wie reich an solchen Lcherlichkeiten ist die Geschichte! Sie wiederholen sich in allen kritischen Zeiten. Kein Wunder; in der Vergangenheit lsst man sich Alles gefallen, anerkennt man die Notewendigkeit der vorgefallenen Vernderungen und Revolutionen; aber gegen die Anwendung auf den gegenwrtigen Fall strubt man sich immer mit Hnden und Fssen; die Gegenwart macht man aus Kurzsichtigkeit und Baquemlichkeit zu der Ausnahme von der Regel.“ Ludwig Feuerbach  哲学はその他の文化の諸形態とつねに或る原理的な連関において繋ぎ合わされている。この連関からして哲学にとって、それの課題は必然的に産まれて来るのであり、生産的であろうとする限り、哲学は、この連関の自覚の上に自己の任務を把握して行かねばならない。文化の諸領域相互の結合の仕方そのものはいつでも歴史的に規定されている。そして私はこの特殊なる規定性の根源をそれぞれの歴史的時代における基礎経験の特殊なる性格において見出し得ると思う*。一層詳しくいえばこうである。おのおのの時代にあって文化の諸形態、あるいは最も広い意味におけるイデオロギーは、単純に平面的な交互作用の関係に立っているのではなく、かえってそれらは層を成して重り合い、かかる立体的なる関係において交互作用を形作っている。しかもこの成層構造は時代によって歴史的に異なる。或る時代においてはイデオロギーのうち例えば宗教が、しかしながら他の時代においては学問的意識がその構造の基礎となっている。このような差異の根柢はそれらの時代における基礎経験の構造のそれぞれの特殊性にある。基礎経験はその特殊性に応じて自己を存在のモデルにおいて抽象せしめる**。かく存在のモデルとしておのおのの時代において新たに把握された存在の領域は、それ自身モデルの意味において、まさに存在論的に過重されるところの必然性をもっている。新たに把握された存在の領域は規則的にまず現実存在、さらには価値存在の絶対圏へ引き入れられ、その対象はつねに一切の世界変化の独立変数として妥当する。この選ばれた領域の構造は他の存在の領域へ導き込まれ、かくして全体の世界、あるいは少なくともその大部分はこのモデルに従って解明されることとなる。ところでかくのごとき過程に相応してあたかも次のことがある。存在のモデルとして必然的に抽出された領域に関する意識すなわちイデオロギーは、その優越なる存在論的性質の故に、いわば「形而上学的なる」妥当性を獲得すると同時に、他方ではもろもろのイデオロギーの連関においてつねに基礎層の位置を占めるに到るのである。しかるに基礎経験の構造はおのおのの歴史的時代においてそれぞれ特殊的であり、そして存在のモデルもまたそうであるから、したがってイデオロギー諸形態の成層構造の土台となるものもまた時代に応じて相異ならざるを得ない。このことがいま我々にとって重要である。もとより諸文化形態の成層構造の認識は、或る人々が注意しているところの文化形態相互の間の類型的および類構的(stil-und strukturanalog)関係の事項と矛盾するものでない。偉大なる時期の芸術、哲学ならびに科学の間には型式と構造との類似がある。例えばフランスの古典悲劇と第十七、第十八世紀のフランスの数学的物理学との間のこの関係はデューエムによって叙述されている。またひとはシェクスピヤおよびミルトンとイギリスの物理学との間に、あるいはライプニツの哲学とバロック芸術との間に、さらにはマッハ、アヴェナリウスと絵画上の印象主義との間にそのような類似を見出し得ると信ずる。ところでかくのごとき事実は単純に文化の諸領域の間に平面的な交互作用の関係があることを語るものではない。その事実はこのような関係に基づくのではなく、またそれらの文化形態相互の間の意識的な翻案によるのでもなく――もちろんかかる場合も存在する、例えばダンテとトマスとの場合、――かえってそれはその根源をそれらの文化形態が一の同一の礎礎[#「礎礎」はママ]経験の表現であるところにもっている。このことはいわゆる型式類似の最も厳密に行なわれている場合が、新しい時代の基礎経験の、伝承され、出来あがった、古い文化形式を力強く推し除けて新たに自己みずからのうちから表現形式を産みつつあるときであるということによって明らかである。このとき個人的な、意識的な影響から全く独立に、もろもろのイデオロギーの間に型式類似が成立する、文化の形式または方向の推移は知識もしくは意志以前に行なわれる。もしそうであるならば、意識形態相互の間の類型的および類構的関係とは撞着することなしに我々はイデオロギーの成層構造を考えることが出来る。そしてもしおのおのの時代においてそれぞれ独自なる構成を有するイデオロギーの層の意味を把握するならば、我々は、何故に唯物史観が経済史観と絶えず混同され、そして何故にかく混同されることに原理的には反対しつつもなおそこに否定し難き統一を認めざるを得ないかの理由を理解し得るであろう。けだし現代にあってはその基礎経験の特殊なる構造に応じてイデオロギーのうち経済学に特に優越なる位置が与えられる。経済学はイデオロギーの構成において基礎層を成す。そこからして現代の全世界観たる唯物史観における唯物論と経済主義とのイデオロギーの範囲内における統一の傾向は出て来るのである。

三木清の他の作品