軽蔑された飜訳
本文約2,100字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
日本の学者が自身の言葉を軽視し、飜訳書を軽蔑する原書癖の弊害を論じる。言葉と思想は分かちがたく結びついており、外国の思想を自国の言葉で表現することは独自の文化形成において不可欠な営みである。歴史上の事例を挙げ、翻訳は単なる知識の伝達に留まらず、思想を発展させる基盤となることを指摘する。自国の学者の著作や日本語訳を率直に読み、利用し合うことで、日本の学界に共通の地盤を築き、思考の深化を図る必要性を説く論考である。
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我々は我々の書いたものを互にもっと読むようにしたいと思う。私は必ずしもそれを尊重せよというのではない。正直に云って、日本の学界の水準は西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。そしてものがそれの本質的な価値に相応して尊重されるということは正しいことであり、善いことである。私の求めているのは親切である。日本人は日本人の書いたものを互にもっと親切に読むようにしたいと思う。我々は互に他の人のものをもっと率直に理解し、もっと親切に批評するようにしなければならぬ。そうしてこそ我々の間に文化の共通な、広い地盤が作られ、その上に初めて我々の独自な文化が花を開くことも出来るのである。然るに我が国の学者は少くとも同国人のものをあまり読まなさ過ぎるのではないか。
これには色々な理由があろう。しかしその一つが日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないというところにあるのは確かなように見える。言葉を愛することを知らない者に好い文章の書ける筈がない。悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている。あの人は学者にしては文章がうまい。などと平気で語られているのである。然るに若し言葉と思想とが離すことのできぬ内面的関係をもっているとすれば、このような事実は、少くとも一面に於いては我が国の学者に自分自身の思想を求め、形作ろうとする衝動と熱意とが欠けているということの証左でなければならぬ。ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る。