蝉の美と造型
本文約3,300字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
彫刻家である著者が、自身の制作対象として「セミ」を選び、その形態の造型美を論じる随筆。バッタやトンボと異なり、セミの体は全体が調和し、特に翅の山形の線や波形といった特徴が彫刻表現に適していると分析する。また、木彫における翅の肉合いの処理という技術的側面にも言及し、セミという題材を通じて、芸術作品における実物再現と解釈の境界にある真の美を追求する心境を綴る。
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私はよく蝉の木彫をつくる。鳥獣虫魚何でも興味の無いものはないが、造型的意味から見て彫刻に適するものと適さないものとがある。私は虫類に友人が甚だ多く、バッタ、コオロギ、トンボ、カマキリ、セミ、クモの類は親友の方であり、カマキリの三角あたまなどには殊に愛着を感じ、よく自分の髪の毛を抜いて彼に御馳走する。カマキリは人間の髪の毛が非常に好きで進呈すると幾本でも貪り食う。恐れるという事を知らない彼の性質も中々おもしろい。しかし彼は彫刻にはならない。形態が彫刻に向かない。バッタ、コオロギも其点では役に立たない。トンボには銀ヤンマのような堂々たる者もあり、トオスミトンボのような楚々たる者もあり、アカトンボのようなしゃれた者もあって、一寸彫刻に面白そうに思えるが、これがやはり駄目。彫刻的契機に乏しい。作れば作れるが作ると却て自然の美と品位とを害い、彫刻であるよりも玩具に近い、又は文人的骨董に類するものとなる。其点でセミは大に違う。彼はその形態の中にひどく彫刻的なものを具えている。しかも私が彼を好むのはむろん彫刻以前からの事である。
子供は皆この生きた風琴を好む。私も子供の頃夏になると谷中天王寺の森の中を夢中に馳けまわって彼をつかまえた。モチの木の皮をはいで石でたたいて強いモチを作り、竹竿のさきに指をなめては其をまきつける楽しさを今でも稍感傷的に思出す。私はなぜかクモの巣の糸を集めて捉えるという方法を当時知らなかった。これは最近になって聞いた方法である。これで採れるなら此の方がよい。翅を傷めないに違いない。セミが思いがけなく低い木の幹などに止まって鳴いているのを発見すると、まったく動悸のするほど昂奮する。今でもする。