TORENDIA
巣鴨菊
正岡容
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🎧 巣鴨菊 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星
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昭和廿年花季の戦火に巣鴨花街の僑居を焼かれてから早や二年有余の歳月がながれ去つた。大正大震以後、俄に隆昌しだしたこの新興色町は漸く町並に一種の情趣を生じて来たところで惜しくも焼亡してしまつたのである。何より町中のおもひもかけないところ/″\に桜欅その他の大樹の聳え立ち武蔵野の日の名残りを示してゐることが頗る私を喜ばせたが、戦後のその町はところ/″\に急造の旗亭が間を隔てゝ建てられてゐる許りで、他は一面の雑艸の原、破れトタンを立てめぐらしたバラック小屋が長唄の稽古所で「供奴」の三味線が流れて来るなど哀れが深い。私の旧居のあとにしてもむしろ未だに荒涼の空地となつてゐるのであつたならば、却つて一種の快い悲哀感をさそはれて前掲「旧東京と蝙蝠」中に於て嗟嘆したやうな詩文の感興にも駆られたであらうが、女房と春美とが舞踊教授を常としてゐたところにはいつの間にやら殺風景な古道具交換所などが建造されてしまつてゐて、到底ありし日のおもかげなど見る可くもない。せめても料亭か妓家のごときが建てられてゐたならば、幾分なりとも昔日の俤を回想するにも容易であつたらうが、生憎私どもの居住してゐた南側一帯は許可地でない故であらう、極めて生野暮な店舗許りがむさくるしく軒を並べてゐるので、私の結婚当初の生活への回想のよすがはいまやことごとく喪はれてしまつた。おもへば年少、祖父母の温情に培はれて生育つた浅草花川戸の旧居も、震火ののちは東武電車ガード下に編入されて全くに旧観を失ひつくし、いまゝたはじめて清福の作家生活結婚生活に入るを得た巣鴨の狭斜街の旧宅趾も亦過去一切を偲ぶ可くもなくなつてしまつた。この点、限りなく私は不倖であると云へよう。
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