我が円朝研究
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あらすじ(AIが作成しました)
三遊亭圓朝による「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」「真景累ヶ淵」といった代表的な速記作品を取り上げ、その話術や構成、表現の巧拙を考察する。当時の速記記録のあり方や演者の話風を活写する意義を論じつつ、作家としての創作技法や、連載を続けるなかで物語が冗長化する構造についても分析を行う。円朝作品が持つ文学的価値や、語りとしての魅力を再評価する評論である。
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三遊亭圓朝初期の作品たる「怪談牡丹燈籠」「鏡ヶ池操松影(江島屋騒動)」「真景累ヶ淵」並びに代表作「怪談乳房榎」「文七元結」の諸篇を検討してみよう。いわゆる欧化時代の横顔たる西洋人情噺の諸作については引き続いて世に問う『圓朝』後半生篇の附録に語ろう。「後開榛名梅ヶ香(安中草三郎)」や「粟田口霑笛竹」や「塩原多助一代記」もまた逸すべからざる代表作品であるがこれらの検討もまた他日を期そう。
まず速記そのものについていいたい、冒頭に私は。
ひと口に速記というもの、大方から演者の話風を偲ぶよしなしとされている。たしかにこれにも一理あってまことに速記は円盤と同じくかつて一度でもその人の話術に接したものにはいろいろの連想を走らせながら親しむこともでき、従って話風の如何なりしかをおもい返すよすがともなるのであるが、そうでない限り、話術のリズムや呼吸、緩急などは、絶対分らないといってよかろう。
その代りその人の高座を知っているものに昔の速記はなかなかに愉しく、微笑ましかった。かりに「なか申しておりまして」というような口調の落語家ありとすれば、その通り速記もまた「なか申して」いたし、「客人何々を御存じか」などと風流志道軒の昔を今に大風な口の利き方の講釈師ありせば、これまた、速記も同じような大口利いていたからである。往年、私の愛読した『檜山実記――相馬大作』など「百猫伝」で知られた桃川如燕の速記だったとおぼえているが、開口一番、如燕自ら今日の講釈師の不勉強不熱心をさんざんにこき下ろして、さて本題に入っている。すでにここが今日のいやに整頓されてしまっている速記とちがっておもしろいが、さらに第何席目かの喋りだしにおいては「ここ二、三日、宿酔の気味で休みまして」と正直に断っている。何もそんなこといちいち断らずとも読者には分らないのであるが、それをハッキリと断り、速記者もまた克明にその通りを写して紹介しているところがいよいよおもしろい。好もしくもある。然るに――さらにさらに終席ちかくに至ると突然貞玉(?)とかいう人(のちの錦城齋典山だろうか、乞御示教)が突然代講していて、なんとこういっている。