釘抜藤吉捕物覚書
本文約15,800字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
江戸八丁堀に住む目明し釘抜藤吉は、類まれな推理力で難事件を解決する腕利きとして知られる。ある朝、鍋屋の女将お美野が絞殺され、犯人がその遺体を利用して自身を被害者に見せかける工作を図る事件が発生する。藤吉は現場の不自然な状況や犯人の身のこなし、そしてわずかな足跡の手がかりを繋ぎ合わせ、複雑な偽装工作を解き明かす。本作は、冷静沈着な親分が鮮やかな手際で事件の真相を暴き出し、犯人を追い詰めていく過程を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
空はすでに朝。
地はまだ夜。
物売りの声も流れていない。
深淵を逆さに刷くような、紺碧のふかい雲形――きょう一日の小春日を約束して、早暁の微風は羽毛のごとくかぐわしい。
明け六つごろだった。朝の早い町家並びでも、正月いっぱいはなんと言っても遊戯心地、休み半分、年季小僧も飯炊きも、そう早くから叩き起されもしないから、夜が明けたと言っても東の色だけで、江戸の巷まちには、まだ蒼茫たる暗黒のにおいが漂い残っていた。
昼から夜になろうとする誰そや彼、たそがれの頃を、俗に逢魔が刻といって、物の怪が立つ、通り魔が走るなどといいなしているが、それよりもいっそう不気味な時刻は、むしろこの、夜から昼に変ろうとする江戸の朝ぼらけ――大江戸という甍の海が新しい一日の生活にその十二時の喜怒哀楽に眼覚めんとする今それは、眠っていた巨人が揺るぎ起きようとする姿にも似て、巷都を圧す静寂の奥に、しんしんと底唸りを孕んでいるかに思われる。いわば、長夜の臥床からさめようとする直前、一段深く熟睡に落ち込む瞬間がある。そうした払暁のひとときだった。
この耳に蝋を注ぎ込んだようなしずけさを破って、
「桜見よとて名をつけて、まず朝ざくら夕ざくら――、」例の勘弁勘次の胴間声が、合点長屋の露地に沸いた。「えい、えい、どうなと首尾して逢わしゃんせ、とくらあ。畜生め! 勘弁ならねえ。」
綽名の由祖の「勘弁ならねえ」を呶鳴り散らしている勘弁勘次――神田の伯母から歳暮に貰った、というと人聞がいいがじつは無断借用といったところが真実らしい、浅黄に紺の、味噌漉し縞縮緬の女物の紙入れを素膚に、これだけは人柄の掴み絞りの三尺、亀島町の薬種問屋近江屋がお年玉に配った新の手拭いを首に結んで、ここ合点小路の目明し親分、釘抜藤吉身内の勘次は、いつものとおり、こうして朝っぱらから大元気だった。
いい気もちそうに、しきりに声高に唄いつづけている。
「可愛がられた竹の子も、いまは抜かれて割られて、桶の箍に掛けられて締められた――ってのはどうでえ。勘弁ならねえや。ざまあ見やがれ。」