釘抜藤吉捕物覚書
本文約15,900字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
安政五年の江戸。潮干狩りに出かけた町の人々のなかで、人形問屋の若主人伝二郎が浪人玄内と知り合う。やがて伝二郎が抱えるある事態に、釘抜藤吉が介入する。藤吉は、伝二郎の証言を元に玄内を追い、遊郭で男を待ち受ける。藤吉は男が蚤取りの喜三郎であることを明かし、伝二郎を伴って対峙する。本作は、江戸の街を舞台に、捕物が繰り広げられる様子を描く。
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一
近江屋の隠居が自慢たらたらで腕を揮った腰の曲がった蝦の跳ねている海老床の障子に、春は四月の麗かな陽が旱魃つづきの塵埃を見せて、焙烙のように燃えさかっている午さがりのことだった。
八つを告げる回向院の鐘の音が、桜花を映して悩ましく霞んだ蒼穹へ吸われるように消えてしまうと、落着きのわるい床几のうえで釘抜藤吉は大っぴらに一つ欠伸を洩らした。
「おっとっとっと――。」
髪床の親方甚八は、あわてて藤吉の額から剃刀の刃を離した。
「親方、いけねえぜ、当ってる最中に動いちゃあ――。」
「うん。」
あとはまた眠気を催す沈黙が、狭い床店の土間をのどかに込めて、本多隠岐守殿の黒板塀に沿うて軽子橋の方へ行く錠斎屋の金具の音が、薄れながらも手に取るように聞こえて来るばかり――。
剃り道具を載せて前へ捧げた小板を大儀そうにちょっと持ち直したまま蒸すような陽の光を首筋へ受けて釘抜藤吉は夢現の境を辿っているらしかった。気の早い羽虫の影が先刻から障子を離れずに、日向へ出した金魚鉢からは、泡の毀れる音がかすかに聞こえてきそうに思われた。土間へ並べた青い物の気で店一体に室のようにゆらゆらと陽炎が立っていた。
「ねえ。親分。」
藤吉の左の頬を湿しながら、甚八は退屈そうに言葉を続ける。「連中は今ごろ騒ぎですぜ。砂を食った鰈でも捕めえると、なんのこたあねえ、鯨でも生獲ったような気なんだから適わねえ、意地の汚ねえ野郎が揃ってるんだから、どうせ浜で焼いて食おうって寸法だろうが、それで帰ってから腹が痛えとぬかしゃあ世話あねえや。親分の前だが、お宅の勘さんとあっしんとこの馬鹿野郎と来た日にゃあ、悪食の横綱ですからね。ま、なんにせえ、このお天気が儲けものでさあ。町内の繰り出しとなるときまって降りやがるのが、今年あどうしたもんか、この日和だ。こりゃたしかにどっかのてるてる坊主がきいたんだとあっしゃあ白眼んでいますのさ。十軒店の御連中は四つ前の寅の日にわあってんで出かけやしたがね、お台場へ行き着くころにゃ、土砂降りになってたってまさあ――ねえ、親方、今日はいよいよ掃部さまが御大老になるってえ噂じゃありませんか。」
「うん。」