あの顔
本文約14,600字 ・ 読了時間 約30分
あらすじ(AIが作成しました)
富豪の妻として幸福に暮らすお久美は、少女時代に見た悪夢に再び取り憑かれる。夢の中では、断崖の先にある無住寺の墓地で誰かが自分を待ち続けていた。ある暴風雨の夜、夫の庄吉を装った男が突然現れる。お久美がその男に誘われ、雨の中へ駆け出すと、後には足跡だけが残されていた。翌朝、寺と墓地は崖崩れで海へ崩落しており、お久美の行方は分からなくなる。かつて江戸で名声を得た役者の墓も同時に失われた。
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一
六月の暑い日の午後、お久美は、茶の間にすわって、浮かない面持ちだった。そういえば、誰も気がつかなかったが、朝から不愉快そうにしていた。暑さのためばかりではないらしかった。綿雲のような重いものが、かの女のこころに覆いかぶさっているのだった。お久美は、この、何一つ不自由のない環境と思い合わせて、胸に手を置くといった気もちで、静かに、その原因が何であるか考えてみようとした。
じっさい、結構な御身分と人にもいわれ、自分でもそう受け入れて来ていたお久美だった。かの女は、若かった。美しかった。からだも、丈夫だった。何よりも、この下谷お数寄屋町の富豪、呉服太物問屋上庄の内儀として、人に立てられ、多勢の下女下男を使っているばかりでなく、恋仲で一しょになった夫の庄吉は、若くて、綺麗で、優しくて、働きがあって、それに日増しに愛してくれていた。そして、その庄吉とのあいだに三人の可愛い子供まであるのだった。何かひとつ思うようにならないものだというが、お久美は、身辺を見まわして、何も欠けたものを発見することはできなかった。富と、富の購い得るあらゆる栄耀と、良人の愛と、子供の愛と、事実、完全な幸福がお久美を包んでいるのだった。満ちたりた心もちだった。かの女は、毎日を楽しんで、運命への感謝のうちに送ることを忘れなかった。
こうしていつもは、快活すぎるほど快活なお久美が、今日は、別人のようにぼんやりふさぎこんでいるのだった。