当今の劇壇をこのままに
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あらすじ(AIが作成しました)
当時の劇壇について、急激な変化を避けつつ観客の成熟に合わせて少しずつ新しい要素を取り入れるべきだと論じる。観客は一歩ずつ進歩しており、苦い薬をオブラートで包むような工夫が必要であると説く。併せて、当時の俳優陣の現状を分析し、若手や中堅俳優の可能性、そして新しい劇への適性について独自の視点から綴る。演劇の発展には焦らず着実な歩みが必要であり、観客と俳優の双方の成長を見守るべきだという見解を示す。
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今の劇壇、それはこのままでいいと思う。旧臘私は小山内君の自由劇場の演劇を見た、仲々上手だった、然しあれを今の劇壇に直にまた持って来る事も出来ないでしょうし、文士劇でも勿論あるまい。
医師が薬を盛る時に、甚しく苦い薬であると、患者は「これは非常によく利く」といわれても、飲むのを嫌がる、男はそれでも我慢をして飲みもするが、婦人などは「死んでも妾は飲まない」などと随分と強硬なのがある。生命と取換えの事がそれである。どっちかといえば、見ても見ないでもいい芝居を、いくら良いものでも、苦かったら見まいと思う。医師は患者に苦い薬を飲ませる場合に最中やオムラートに包んで服用させる、患者はそれで利くと段々と信じ、かつ馴れて苦い薬も飲むようになるのである。
今の劇壇はこのままでいいとは、急激な苦い薬を飲ませずに、最中やオムラートで包んで飲ませようの謂である、私は常にそう思う。芝居の見物は幼稚である、進まないといわれるが、なるほど批評家や脚本作家から見れば幼稚でもあり、進まないであろうが随分と進んでは来ている、昨年、歌舞伎座と市村座で骨寄せの岩藤を演じたが、先代菊五郎の演った一昔の前には見物は喜んで見ていたのが、今では骨が寄るのを見ると、いずれも見物は笑った。今の方が遥に道具も工夫も巧妙であるでしょうに、見物は笑った。して見ると見物は進んで行く、このままで行っても十年後には随分自由劇場も儲かる事になるでしょう。私は外国へ行った事はないが、外国でも一般の見物にはイブセンやマアテルリングなどは受けないのだそうですな、それで自由劇場のような団隊が沢山あるが、それも思わしい决算を見ないで行悩み勝ちだという。