妾宅
本文約16,600字 ・ 読了時間 約34分
あらすじ(AIが作成しました)
現代社会の潮流に馴染めない文士の「珍々先生」は、世間の仮面を脱ぎ捨てる隠れ家として、堀割のほとりにある古びた妾宅を愛用している。湿り気を帯びた薄暗い室内で猫と過ごし、過ぎ去った時代の情緒に浸る彼は、新時代を謳歌する若き芸術家たちの生活や美意識の欠如を批判しつつ、そこに自身の安息を見出していく。本作は、江戸芸術の余香を纏った私的な空間と、近代化する世俗の対比を通じ、一人の文士の複雑な美意識と生活の様相を綴る。
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一
どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった。今の世の中には面白い事がなくなったというばかりならまだしもの事、見たくでもない物の限りを見せつけられるのに堪えられなくなったからである。進んでそれらのものを打壊そうとするよりもむしろ退いて隠れるに如くはないと思ったからである。何も彼も時世時節ならば是非もないというような川柳式のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身過ぎ世過ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。頼まれれば小説も書こう。粗悪な紙に誤植だらけの印刷も結構至極と喜ぼう。それに対する粗忽千万なジゥルナリズムの批評も聞こう。同業者の誼みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善悪無差別に一通りは心得ていようと努めた。その代り、そうするには何処か人知れぬ心の隠家を求めて、時々生命の洗濯をする必要を感じた。宿なしの乞食でさえも眠るにはなお橋の下を求めるではないか。厭な客衆の勤めには傾城をして引過ぎの情夫を許してやらねばならぬ。先生は現代生活の仮面をなるべく巧に被りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽屋を必要としたのである。昔より大隠のかくれる町中の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。
二