高橋新吉論
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あらすじ(AIが作成しました)
高橋新吉の特異な精神構造と、その詩作における特質を論じる評論文。無垢な良心を持ちながら論理的な思考を愛する高橋の矛盾や、現実を幻想として捉える独特の夢想家としての姿を分析する。また、ヒュマニティを起点としつつも、思索を深めるあまり実質を見失いがちな詩作の傾向を指摘し、芸術家としての苦悩や可能性に触れる。本書は、著者である中原中也が高橋へ送った書簡を併録する形式で、対象への深い関心と敬意を綴る。
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こんなやさしい無辜な心はまたとないのだ。
それに同情のアクチイビティが沢山ある。これは日本人には珍らしい事だ。
この人は細心だが、然し意識的な人ではない。意識的な人はかうも論理を愛する傾向を持つてゐるものではない。高橋新吉は私によれば良心による形而上学者だ。彼の意識は常に前方をみてゐるを本然とする。普通の人の意識は、何時も近い過去をみてゐるものなのだ。――
彼の魂にとつて現象は殆んど何物でもない。といつてこれは現実を無視してゐるといふのではない。寧ろ彼こそ一番現実の大事な人なのだが、蓋しそれは幻想としてだと先づ言つて置かう。――彼にとつては常に真理が必要なのだ。それが彼の良心の渇きで、云はゞ彼は自動機械的に現実を材料としての夢想家なのだ。
何時か彼は詩人であるよりも実社会の人であると思つた事はあるかも知れない。彼には自分を詩人だと思ふだけでは安心出来ないものがある。併しそれは彼の夢想が余りにありの儘の現実を扱ひ得るからで、夢想がかくも現実的であるといふ点で、高橋新吉は人類中非常に特異なものなのだ。けれどもこのことが彼の詩を却々整つたものとさせない重要な原因なのだ。
普通に詩が整つてゐるといふことは、伝統に頼ることから得られるやうだが、高橋新吉は純粋な良心家で、伝統に頼る事は彼からは堕落としか思へない。彼には歴史も宗教もほんの時間的部分的なものに過ぎない。勿論人間は全的には何も支配することは出来ないことは彼も知つてゐるのだが、けれども彼が生きるとして、時間的なものに不満であるのは自然の勢ひだ。そして彼が或時詩の中で呟く、「詩の拙い奴は想像力の発達してることで分る。」(この言葉は少し覚え違えてるかも知れない。)