桐の花とカステラ
本文約3,100字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
桐の花とカステラに晩春から初夏の気息を見出す筆者は、近代人の繊細な感覚と西欧芸術の鋭敏な手法に共鳴する。古来より完成された美しさを放つ短歌を、緑の古宝玉や一絃琴に例え、奔放な詩作や強烈な色彩の歓楽に疲れた魂が立ち返るべき場所として尊ぶ。自身の歌を絵画の裏にある湿り気と位置づけ、声高な叫びではなく、静かな情調や風景の気配の中に、真に感じた悲哀を細やかな触感として描き出すことを追求する随筆である。
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桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛の哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店の階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象、実際触つて見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうに滑つこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。
新様の仏蘭西芸術のなつかしさはその品の高い鋭敏な新らしいタツチの面白さにある。一寸触つても指に付いてくる六月の棕梠の花粉のやうに、月夜の温室の薄い硝子のなかに、絶えず淡緑の細花を顫はせてゐるキンギン草のやうに、うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる夏の日の冷めたい汗のやうに、近代人の神経は痛いほど常に顫へて居らねばならぬ。私はそんな風に感じたのである。
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