本文へ移動
TORENDIA

出発

本文約17,700字 ・ 読了時間 約36分

あらすじ(AIが作成しました)

叔父の家で暮らす姉のお節と妹のお栄は、亡き叔母の遺した時計が刻む静かな生活の中で、姉の結婚準備に追われる。叔父は二階から子供たちの様子を気にかけつつ、姉妹の行く末を案じる。やがて結婚を控えたお節に旅立ちの時が訪れ、新居へ向かうため、姉妹や親族に見送られながら叔父の家を出発するまでの家族の情景を描く。

島崎藤村

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 21

時計屋へ直しに遣つてあつた八角形の柱時計が復た部屋の柱の上に掛つて、元のやうに音がし出した。その柱だけにも六年も掛つて居る時計だ。三年前に叔母さんが産後の出血で急に亡くなつたのも、その時計の下だ。

姉のお節は外出した時で、妹のお栄は箒を手にしながら散乱つた部屋の内を掃いて居た。斯の姉妹が世話する叔父さんの子供は二人とも男の児で、年少の方は文ちやんと言つて、六歳の悪戯盛りであつた。文ちやんが屋外からお友達でも連れて来ると、何時でも斯の通り部屋を散乱して了ふ。お栄は仏壇のある袋戸棚の下あたりを掃いて居ると、そこへ叔父さんが二階から下りて来た。

「子供は奈何したい。」

と叔父さんが聞いた。叔父さんは昼寝から覚めたばかりの疲れた顔付で居た。

「表へ遊びに行きました。」とお栄は物静かな調子で答へた。

「節は?」と復た叔父さんが聞いた。

「姉さんはお墓参り。」

「斯様な暑い日によくそれでも出掛けて行つたなあ。」と言つて、叔父さんは半ば独語のやうに、「お墓参りには叔父さんもしばらく行かないナ……」終に叔父さんは溜息を吐いた。部屋には片隅にある箪笥から其上に載せた箱の類まで、叔母さんが生きて居た時分とちつとも違はずに置いてある。唯、壁を黄色く塗り変へたので部屋の内がいくらか明るくなつたのと、縁先の狭い庭の一部を板の間にして子供の遊ぶ場所に造つたのと、違つたと言へばそれ位のものだ。叔母さんの眼を楽ませた庭の八手は幾本かあつた木が子供に酷い目に逢はされて、枯れて了つた。中で一本だけ威勢の好いのがズンズン生長して、その年も幹のうらのところに新しい若葉を着けて居る。叔父さんは縁先に出て、その葉の青い光を見て、復たお栄の方へ引返して来た。

「へえ、時計が出来て来たネ。」

と言ひながら叔父さんはしばらく柱の下に立つて、親しいものゝ面を仰ぐやうに、磨き直されて来た時計を見て居た。ネヂを掛ける二つの穴の周囲から羅馬数字を画いたあたりへかけて、手摺れたり剥げ落ちたりした痕が着いて、最早お婆さんのやうな顔の時計であつた。でもまだ斯うして音はして居る。硝子の蓋を通して見える真鍮色の振子は相変らず静かに時を刻んで居る。

島崎藤村の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本