一 海の狼
諸君は御記憶であろうか? 昨夏七月二十二日ブエノスアイレス発ユーピー特電が突如倫敦各紙に第一声を送って以来、エーピー、ロイター、タス、アヴァス等世界の大通信社の触手という触手は一斉に色めき立って、地元拉丁亜米利加諸国はもちろん、全欧米を熱狂と興奮の坩堝と化せしめ、世界学界に解けざる謎を与えて輿論は囂々として、今なお帰趨するところを知らざる大事件のあったということを!
今世紀前世紀を通じ戦争を除いてはここ二、三百年間、まずこれほどに異常なる衝撃とセンセーションを欧米人士に与えたものはなかったであろうとさえ、言われるくらいまでに最大なる世紀の話題であったが、もちろん多数の読者諸君のうちには外電によってすでに大体の輪郭を御存知の方もあり、あああれかと頷いていられる方も多かろうと思われるのであるが、そういう諸君にはしばらく眼をつぶっていただいて、私はまず近着各紙を渉猟して、その中から比較的信憑するに足ると思わるる部分だけを蒐集し、これを基礎としてこの事件の全貌をできるだけ詳細に、そしてできるだけ確実にお伝えしようと考えている。
もちろん事件といっても、これは怪奇なる犯罪とか、猟奇的な探偵物語とか言った種類の物では全然なく、そんな荒唐無稽な人為的作為の痕なぞは微塵だにもないジミな物語であるだけに、かえって事実は小説よりも奇なりという言葉の真が、追々とお分りになってくるであろうと思われる。
が、そのためにはこの物語の根幹をなしている、今より三十三年前に起った一つの出来事をここに抽出して――しかも付録というか挿話というか、その一つの出来事を冒頭に掲げて、諸君の御記憶を喚起しておいた方が、この物語全体にたいする御理解を深からしめる所以ではなかろうかと考える。一九一四年、すなわち今から三十三年前に勃発した第一次世界大戦中の出来事なのであった。