仁王門
本文約28,100字 ・ 読了時間 約57分
あらすじ(AIが作成しました)
フランス帰りの外務省官吏・新次郎は、長年待ち続けた恋人の中込礼子との結婚を夢見て帰国する。しかし、山深い故郷で母を看取り、自らも絶望的な状況に追い込まれていく。刑事によって発見されたノートには、礼子への想いや、帰国後に直面した家族間の葛藤、そして深い苦悩が綴られていた。宗源寺の山門で発見された遺書とも思える手記と、その傍らで息絶えていた親子の姿を通じて、一人のエリートが抗いがたい運命の渦中で辿った悲劇的な道のりを描く。
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手紙の形で書かれてあるし、書いた本人は毒を呷って死んでいるのだから、おそらく遺書だろうとは思うのだが、発見した場所が場所だから、どうもその点がハッキリせぬ。
もし仮に遺書だとしても、果してその中込礼子という、婦人に宛て送るつもりで書いたのか、書き終ったら気が変って、そのままうっ棄って置いたのか? それともこれを下書きにして、もう送ってしまったのか? そういう点が、一切不明である。
ともかく革表紙、仏蘭西仮綴じの立派なノートである。そのノートに、ペンでビッシリと書いてある。それが表紙を食い破られ、角々を噛じられ、鼠の糞埃まみれになって出て来たのだから、刑事はフウムと小首を傾けた。
最初の頁には、子供のいたずら書きのように、右から左から横から斜めから、ただ中込礼子さま中込礼子さまと、七つ八つくらいも書いてあったろう。遺書か、自分の悶々の情を、散ずるための気晴らしか? その点はハッキリせぬが、いずれにせよその中込礼子という、女性を思い泛べながら、書いたものであろうということだけは、確実である。
それともう一つは、筆が渋って苦悶して、その間無意識に中込礼子礼子と書いているうちに、やがて堰を破った洪水のように、どっと気持が溢れ出たものであろうということも、ありありと推量される。中込礼子……中込礼子……どうもどこかで、聞いたことのあるような名だが、と考えているうちに、おおあの女か! と刑事の頭には、新聞や雑誌で見たことのあるその婦人の美しい顔が泛んで来た。ほう、あの中込礼子だったのか?
婦人というよりも、令嬢と呼んだ方が、適当だったかも知れん。そしてまた中込礼子その人が、どれほど有名だというのでもない。富豪の令嬢で、巴里帰りの新進ピアニストというので、新聞や雑誌に写真は出ていたが、その父親の富豪の方が、有名だったのだ。日台紡績の社長で、東洋綿業の社長で、中込精密機械工業の社長として日本中に鳴り響いている財界屈指の富豪だということは、こんな山の中の刑事の頭にまでも、沁み込んでいる。