目の醒めるような新緑が窓の外に迫って、そよ/\と風にふるえています。私は、それにじっと見入って考えました。なんという美しい色だ。大地から、ぬっと生えた木が、こうした緑色の若芽をふく、このことばかりは太古からの変りのない現象であって、人がそれに見入って、生の喜びを感ずる心持も、また幾百千年経っても、変りがないと思われました。
なんにも其処には理屈がないのです。たゞ美しいと思えば、それでいゝ、そして人間は、幾何もない生を存分に享楽することが出来れば、それでいゝのであります。
しかし、今の世の中で、この春に遇って、木々の咲く、花を眺め、この若やかな、どんな絵具で描いてみても、この生命の跳る色は出せないような、新緑に見入って、意味深い自然に対して、掬み尽されない慈愛を感ずる人が、幾何ありましょうか。
其れを考える時、私は、また理屈なしに、不幸であるということを感ぜずにはいられないのです。こんなに忙しく、また慌しい生活を送っていたなら、ついに死ぬまでのんびりとして、この自然を楽むことなしに、死んでしまうかも知れない。
こうしたことは、恐らく昔のある時代にはなかったことでしょう。海に、深林に、また野獣に脅かされた、其の当時の人々は、また、同時に自然の慈愛をも充分に受けることが出来たでありましょう。
地上に住む者は、地の匂いを充分に嗅がなければ、其の生活に徹することが出来ない。それに其の地を離れた時には、もはや、自分等の本当の生活というものは、無くなってしまった時であります。地上に住む人間が、最も親しい土や木や、水のほんとうの色を忘れ、匂いを忘れ、特質を忘れたら、彼等は、もはや何処にも、棲家を持たないといっていゝ。なぜなら、彼等は自然に対する、否、地に対する反逆者であるからです。
言い換えれば、地と人間の親しい交渉、それを措いて生活は他にないのであります。愛と美と温かな感情とが、生活に必要なばかりであって、知識というものは本能的の生活には要がないからであります。