自由性を多分に持つものは、芸術であります。こう書くべきものだとか、こう書かなければならぬとかいうことは定っていません。いま、私は、自分の書く時の態度について、語りたいと思います。
かりに、書くかわりに、語るとして、童話について考えて見ます。私が、何か子供達に向ってお話をするとしたら、まず、それがどんな子供達であるかを知ろうとするでしょう。次に、いくつ位であるかを見ます。それによって話を選び、よく分るようにしたいがためです。
子供の時分には、いかなる種類の話にも大抵興味を持つものです。空想し易く、ものを見るのに比較的無差別であり、何ものにも同情し易いからにもよるが、それにしても、いろいろな意味で、境遇に従って話の題材を選ぶことは自然であると考えられるからです。また、題材の如何が、子供達に与える興味に関係することも勿論であるが、より重要なものは、語る人の態度にあろうと思います。
いかなる話が語られるにせよ、語る人の態度が真面目でなかったなら、子供の心を確実に掴むことはできません。従って、語る人と聴く者との心の接触から生ずる同化が大切であるのであります。
真実というものが、いかに相手を真面目にさせるか、熱情というものが、いかに相手の心を打つか、こうした時に分るものです、それであるから、語る人の態度は、自から聴く人の態度を、改めることになるのであります。
「面白い話や、おかしい話や、また怖しい話をしたら、みんなだまってよく聞くじゃないか。だから、そういう話を選んで、子供達にきかしてやればいゝのだ」
こういう説も出るでありましょう。もし、単に子供達に聴かせるということ、面白がらせるということが目的であるなら、まさにその通りでありましょう。
私が、お話をしてきかせるというのは、そういう意味からでない。面白がらせるということも、願望の中にないことはないが、もっと、どうかいゝ人間になってもらいたいということが、お話をする第一目的であるのであります。