街を行くまゝに感ず
本文約3,000字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
街頭の喧騒の中で忙しなく動く人々を見て、その生活の目的や必然性を著者は疑う。都会への一極集中が生む不均衡や、生産地である田舎の過酷な労働が軽視される現状を指摘する。さらに、知識階級の視点で描かれる従来の文学をブルジョア的と批判し、被搾取階級の視点を持つ真のプロレタリア芸術の必要性を説く随筆である。
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たま/\書斎から、歩を街頭に移すと、いまさら、都会の活動に驚かされるのであります。こちらの側から、あちらの側に行くことすら、容易ならざる冒険であって時には、自分に不可能であると感じさせる程、自動車や、自転車や電車がしっきりなしに相ついで、往来しているのであります。
これを見るものは、誰しも、大都会に対して、その偉なる外観に歎賞の声を発せぬものはなかろうと思います。しかし、私は、この時、すぐに、次のような疑いの生ずるのを何うすることもできない。「何が、こんなに忙しいのか。こんなに忙しそうに、みんなが動かなければならない必然の理由は、何であろう……」
私は、みんなが、忙しそうに動かなければならぬ、その仕事に対して、その仕事の目的に対して、いかなる自覚を持ち、その上で動いているか、否かを疑わずにはいられなかったのです。
たいして、急がなければならぬことでないのに、彼等は自動車に乗り、また、出なくて家にいてもいゝのに、外へ出たり、また、それ程、物資に欠乏していないのにかゝわらず、物資をその上にも輸送し、輸入するために、トラックを走らせたり、すべてが、必然に迫っていないにかゝわらず、一刻を争ったりしているように、その多くが、いたずらに、動き、消費しつゝあるのではないかというような疑問が感ぜられるのです。もし、個人的に、社会的に、合理的に動きつゝあるなら、そして、かくの如く、必然に向って、働きつゝあるなら、この社会は、いまゝでにも、もっとより善く、より正しくならなければならぬと感じられるからです。
けれど、私達は、いかに、かく都会に喧騒を極めても、このまゝであったら、決して、私達の生活は、光明を望むものでないことをむしろ痛感せざるを得ないのは、なぜでしょうか。