本文へ移動
TORENDIA

抜髪

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

雨の降り続く暮春、隣に住む正体不明の若い女へ思いを馳せる「私」は、様々な推測や空想を重ねながら日々を過ごす。やがて季節が移ろい夏が訪れると、強い後悔と慚愧の念に駆られた「私」は、長らく気になっていた隣の黒い家を初めて訪れる。無人となった家の中へ踏み込むと、腐敗した空気と共に、畳の上には一握りの抜髪が残されている。姿の見えぬ住人への執着と、失われた季節を背景に、孤独な観察の顛末を描く。

小川未明

速度
🎧 抜髪 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 3

ブリキ屋根の上に、糠のような雨が降っている。五月の緑は暗く丘に浮き出て、西と東の空を、くっきりと遮った。ブリキ屋根は黒く塗ってある。家の壁板も黒い。まだ新しいけれど粗末な家であった。家の傍には、幹ばかりの青桐が二本立ている。若葉が、びらびらと湿っぽい風に揺れている。井戸がその下にあって、汲手もなく淋しい。やはり雨が降っている。この家には若い女が一人で住んでいるのだ。

私は、この若い女を見たことがない。暮春であるけれど、寒い日であった。私は、窓から頭を出して、黒い家を見た。ひょろひょろとした青桐が、木のように見えぬ。人の立っているようだ。此方向の黒い壁板には一つも窓がなかった。彼方には窓があるかも知れない。私は、まだその家を廻って見たことがない。ただ、若い女が住んでいるということを聞いた。

「女は、どうしているだろう。」と思った。女は、琴を弾かない。また歌わない。いつもあの黒い家には音がなかった。私は、どうかして、井戸に水を汲みに出る姿でも見たいと思ったが、ついその女の姿を見たことがない。

私は心で、いろいろその女を想像して見た。或時は、痩せた青い顔の女だと思った。或時は、もう寡婦で艶気のない、頭髪の薄い、神経質な女だと思った。私は、女のことを考えているうちに、日が暮れた。

やはり雨が降っている。こう幾日もつづいて降ったら皆な物が腐れてしまうだろう。

「そうだ。皆な物が腐れてしまったら……。」と思った。

黒い夜だ。腐れて毒と化たような夜だ。暗い色は漠としているだけだ。黒い色には底に力がある。私は暗い夜でない黒い夜だと思った。私は、深い穴を覗くような気がした。冷たな舌でなめるように風が当る。もう黒い家は分らぬ。あるけれど分らぬ。私は不安であった。けれどやはり私は窓から頭を出していた。

明る日も雨だ。私の空想はもはや疲れた。朝から、青桐に来て烏が止っている。茫然と窓に凭れて、張り付けたような空を見ていると、烏が、時々頭を傾げて何物かに瞳を凝している。私は、手を上げて逐うのも物憂かった。自然に逃げて行くのを待ていると、烏は昵として動かなかった。

小川未明の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本