正坊のおじいさんは、有名な船乗りでした。年をとって、もはや、航海をすることができなくなってからは、家にいて、ぼんやりと若い時分のことなどをおもい出して、暮らしていられました。
おじいさんは、しまいには、もうろくをされたようです。すくなくも、みんなには、そう思われたのでした。なぜなら、海の中から拾ってきたような、朽ちかかった一枚の黒い板をたいせつにして、いつまでもそれを大事にして持っていられたからです。
また、おじいさんは、家の前に立って、あちらの山のいただきをながめながら、
「まだ、こないかいな。」といわれました。
みんなは、それを不思議に思ったのです。
「おじいさん、だれがくるのですか?」と、家の人が聞きますと、
「海から、私を迎えにこなければならぬはずじゃ。」と、おじいさんは、答えられました。
おじいさんが、とうとう亡くなられてしまってから、おばあさんは、正坊に、よくおじいさんの話をして聞かせました。
「おまえのおじいさんは、有名な船乗りだった。しかし、年を取られてから、もうろくをなさって、毎日、あちらの山の方を見て、海から、だれか呼びにくるはずじゃといっていられた……。」
正坊は、おじいさんの話を聞くたびに、なんとなく不思議な感じがしたのです。そして、そのことを、まったくもうろくからの言葉ばかりでないというような気がしたのでした。
それで、正坊は、やはり、家の前に立って、あちらの山をながめていました。青い空の下に山の線が、すその方へなだらかに流れている。夜になると、山の上には、さびしく星が輝いたのである。春から、夏にかけて、その山は紫に見えました。そして、冬になると、山は真っ白になりました。
「雪が、あのように積もっては、どんな男も山を越してくることはできぬだろう。……しかし、その勇士は、また非凡な術で、雪の上を渡ってこないともかぎらない。」と、冬の晩方など、正坊は、外に立ってながめていたこともありました。