僕のような融通のきかない学究がこういう雑誌に書くということは、甚だ不似合な仕わざであろうと思う。老の繰言の如き、生彩のない、調子の弱い、従って読者に何の印象をも与えない、贅言をくどくどと列べ立てるのが癖だからである。しかし、是非にということであるから、悪文の見本のつもりで書くことにする。ことわるまでもないことであるが、奇抜な考をいうのでも新しい説を述べるのでもない。平凡の、ありふれた、当りまえの、ことをいうのである。つまり、いわないでもわかっていることをいうに過ぎないのである。
もう、とっくに、そんなところを通り越している時代だと思うが、それでも今なお世間の一隅には、我が国固有の風俗とか固有の国民的精神または国民性とかいうことを高唱しているものがある。風俗とか国民的精神とか国民性とかいうものが、昔から今まで動かないで固まっていたものででもあるかのように聞こえる。が、そんな考が事実に背いていることはいうまでもなかろう。
例えば、我が国は家族主義の国であるという。家族主義ということばの意味は甚だ曖昧であるが、世間でいうところを聞くと、徳川時代に行われていたような家族生活の状態を指すのらしい。それならば、それは鎌倉室町時代から徐々に発達し、徳川時代になって出来上がったものであって、決して昔からの有様ではない。上古は勿論のこと、平安朝の貴族どもにおいても、その家族生活は全然いわゆる家族主義とは違ったものであった。また今日の家族生活が徳川時代のに比べて変って来ていることは、明白な眼前の事実である。こういうように、家族生活の状態は歴史的に変遷して来ている。決して固定していたものではない。何らかの形においての家族生活は昔も今もあるが、それは世界の大抵の民族がやはり何らかの形において家族生活をしていると同じほどのことである。