こんな珍しい話がありますよ。
あるホテルであつたことですがね。ある晩、そのホテルの帳場へ、築地の吉田といふ待合から電話が掛つて、「今夜わたしとこのお客がそちらへ行くから、泊めてくれないか。」といふんです。「何といふ方だ。」ときくと、名前は今いへないといふ返事なので、それぢや困ると、ホテルでは一先づ斷つたのでした。それで、もしも、さういふ變な客が來たら、泊めないことにしようと、ホテルではきめて、夜勤の者にさういひ含めて置いたのです。ところが、かういふ宿屋に勤めてゐる人間のうちにも、薄ボンヤリした者が、一人や二人はあるもので、その晩の夜勤者が、不注意にも、その問題のお客を泊めることになつたのです。帽子を深々とかぶつて、顏ぢゆうをマスクで蔽うた、一目で變な人間と思はれるお客が、やす/\と關所を通り拔けて、上等の客室へ收りました。
ところが、その客は、部屋へ入ると、それつきり誰にも顏を見せない。部屋にゐる間は錠をおろしてボーイを内へ入れないし、外へ出る時には、朝早くか、夜遲くか、人目の薄い時を見て、例の帽子とマスクで顏を隱して、弓を離れた矢のやうに、サツと飛び出すのです。ある時、どうしたはずみか戸が少し開いてゐたのでボーイがこの時こそと、中へ入つて行くと、寢床にゐたお客は慌てゝ毛布を頭からかぶつて動かない。さういふ譯で、部屋附きのボーイも、一度も客の顏を見ることが出來ないし、無論訪問者は一人もない。
時としては、二日も部屋に籠つて、一歩も外へ出る樣子がないので、ボーイが氣遣つて、たび/\ノツクするんですが、全然答へがない。それで、食事は、ホテルの食物は一度も食べないから、何を食べてるのかと、不在中に部屋をよくさぐつて見ると、チヨコレートの屑と蜜柑の皮とが散らばつてゐる。それから、不思議なのは、チヨツキや肌着なんかゞ、一二度着たばかりの新しいのが、毎日のやうに屑籠へ突込まれてゐる。