TRENDIA CLASSIC

新しくもならぬ人生

正宗白鳥

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暦の上で何度新しき年を迎へても、心が新たになるのではない。私は、二十代の昔も七十代の今日も、根底においては、自分の考へ方は同じやうに思はれる。經驗を積み知識も豐かになつたにしても、すべて皮相な經驗、皮相な知識の積み重ねであつたのに過ぎないやうに思はれる。そして、大抵の人間が究極の所、さうではないかと私に思はれてゐる。

私は何も知らない嬰兒として、偶然この世に生れて以來、生きるための知識を、獲ようとして、あくせく努めて來たのであつたが、それだけでは足りない、大切なものを何時も忘れて來たやうに、いつも思はれ通しであつた。神を知らぬためとか、佛に仕へないためとか、あるひは人間愛に徹しないためとか、我を棄てないためとか、古來東西の物知り顏の人間が、言語により、文字により、うるさく説き立てるのを、一々御もつともには思ひながら、御もつともに思はれたままで、私の身につかないでいづれも通り過ぎるのである。

「たたけよ、さらば開かれん。」といふ、頼もしい、尊げな言葉は昔々聞かされてゐるが、私のこぶしが生れながら弱いせゐか、たたいてもたたいてもとびらは開かれないのである。

私は長い生涯を顧みて、自分相應にいろいろな經驗をして來たことを考へると、それがいいことをしたとか、惡いことをしたとか、その經驗に意味があるとかいつたやうなことはあまり感じられない。もつたい振つた言葉でいふと、宿命といつたやうな感じがする。宿命觀はふるい考へであり陳腐な思想であり、低級な人生態度であると、現代では思はれてゐるらしく、卑俗な新興宗教の教旨にも通ずるところがあるらしく思はれさうであるが、それなら、そのふるさ、陳腐さ、低級さ、卑俗さを脱却した、新しい、清鮮な、高調賢明な宿命觀を立てて見ればいいのであらうか。

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