TRENDIA CLASSIC

心の故郷

正宗白鳥

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暮れに、私の家の近所を散歩してゐると、東京工業大學の門前でカミュの『誤解』上演と記されたお粗末な紙看板が目にとまつた。演劇部と記されてゐるので、この學校にでも芝居なんかやる學生があるのかと不思議に思つた。私は學校芝居は殆んど見たことはないし、見ようと思つたこともなかつたのだが、カミュの戯曲『誤解』は、なにかの雜誌に出てゐた飜譯で讀んで、ひどく面白く感じたことがあつたので、その上演をちよつとでものぞいて見ようかと思ひついた。それで、開演時刻を見はからつて、まだ一度も入つたことのない校内へ入つて、演劇場へ入ると、豫想通り、見物は幾人も來てゐなかつた。幕開き間際に、この學校の學生と覺しき學生が、興もなげに入つて來て席を埋めるだけであつた。

幕が開いても、演劇光景は出現しなかつた。役者の聲が低くつて、私の耳にはよく聞き取れないので、舞臺近くまで進んで、全心をそちらへ注いで、演技の足らざるところを、自分で補ふ氣持で見てゐると、多少のもどかしさ、齒がゆさを感じながら、しまひまで面白く見續けた。見終つて、心に一種の刺戟を感じた。舞臺監督もなかつたらしく、たゞこの戯曲の飜譯語を、日常の言葉通りに口に出してゐるだけのやうで、これは演劇以前であつて、この程度なら、だれでもやれさうである。もつと強い聲を出したらいゝではないか、もつと活溌に動いたらいゝではないかと思はれたが、この強烈な人間の動搖を、つゝましやかに、ナイーヴにいつてゐるところに、實世界の人間を、私の心に描かせるゆゑんともなつたのである。

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