花より団子
本文約2,700字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
洗足池畔に居を定めた著者が、満開の桜を眺めながら自身の幼少期の記憶や学校教育を回想する。作文の課題で花見の記を課された際、美しい桜を前に筆が進まなかった経験を綴り、教えられた言葉を機に桜を団子に見立てて記述したことや、少年時代に一人で桜の花を食した奇妙な記憶を辿りながら、花と団子に対する自身の感性を描き出す。
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洗足池畔の私の家の向ひは、東京近郊の桜の名所である。私は、終戦の前年軽井沢に疎開して以来十数年間、毎月一度は必ず上京してゐたが、盛りの短い桜時には、一度も来合せたことはなかつた。この頃、こゝに居を定めることになつたので、久振りに花の盛りを朝夕たつぷり見ることが出来た。急速に温くなつたので、見る/\咲揃ふやうになつた。「細雪」のなかの或女性は、花のなかでは何が好きかと訊かれて、「それは桜やわ」と答へた。たべ物としての魚類のうちでは何が好きかと訊かれて、それは鯛であると答へた。日本人としての平均した好みはさういふところなのだらう。瀬戸内海沿岸に生れた私は、幼い時分、最もうまい魚は、鯛の浜焼であると教へられてゐた。捕り立ての鯛を、浜辺の塩がまで蒸し焼きにしたのが、人類最上の美食であるやうに、傍からの入知恵で思はせられてゐた。花は桜であると、子供心に思込まされてゐた。今の私は、三分咲きから五分咲き、満開と、忙しく咲き続け、咲きほこつてゐる一団の桜花を、私の部屋の正面に見ながら、桜は花の王であり、鯛は魚の王であると、早くから教へられたことを思浮べてゐる。そして、これまで見た桜の名所を、次から次へと思出して、閑余の楽みにしようとしたが、歌人詩人などによつて伝統的に折り紙のついてゐる吉野こそ、今なほ日本一ではあるまいかと推察された。私は吉野へは三度も遊んだのであるが、最初が最もよかつた。花も景色も同じ事なのだが、あの頃はまだ、花時にもひどい雑沓はなかつた。飲んだくれが醜態を演じる度合ひがまだ猛烈でなかつた。世が末になるにつれ、二度目三度目と見に行つた時には、いつそ、花の散つたあとの吉野がいゝのぢやないかと思はれたりした。
和歌にも俳句にも、物語にも絵画にも音曲にも、古代から今日まで、桜は讚美の限りを尽されてゐる。新たな讚美の言葉なんか残されてゐさうでない。鯛は魚の王、桜は花の王、獅子は百獣の王、人間は万物の霊長。