初めに断わっておくが、私はごく最近社会大衆党に這入った一党員である。その限り一応党是に服し党の指導方針を尊重すべきであるのは、常識である。と共に党内に於ける党批判の自由は、そのデモクラシーの建前によって、又私の権利である。だが今私は党内に於ける批判をやるのではない。本誌は党と無関係であるから、ここで述べることは党内的な意見ではない。
併し社会大衆党は、大衆の政党である。云って見れば、一切の日本国民が之に参加出来る筈のものであり、形式的にはそういう可能性を排除出来ない理屈だ。従ってその党員は、特別に党内の特定部署を代表する者でない限り、常に一介の市民としての平均的な資格を、党内外に於て保持し得るものであることを、私は信じる。一介の党員である私が、党外に立って、即ち本誌に於て、一市民としての見解を述べることに、意義のある所以だ。
社大党は「ファッショ化」したと往々云われている。併しそれは何を指すのであるか、又何を意味するのであるか。思うに、社会大衆党が一般民衆の政治的に覚醒した部分から多大の期待を持たれているという事情に鑑みると、それの所謂「ファッショ化」という特色づけは、或いはこの期待に対する裏切りの的確な指摘の心算であり、或いは少なくともファッショという合言葉によってこの裏切りを象徴せしめようという心算であろう。いずれにしても社大党に対する不満の声であることは勿論である。政治的に覚醒した民衆の意識的な支持を以て最後の生命としている社大党にとっては、この「ファッショ化」という合言葉(或いは寧ろ出来合いの便宜的用語)によって示される不満は、その言葉の正否に関係なく、重大問題でなくてはならぬ。現に私も亦、社大党の綱要の大きな一つである「ファシズム反対」の建前の故に、この党を支持する決心をしたのである。