個人に公的生活と私生活とがあるように、社会全体にも云わば公的生活と私的生活との区別がある。別に社会の裏面があるということではない、社会の内心の生活があるという意味だ。どっちの生活も現実の生活であって、どっちだけを採りどっちを捨てるというわけには行かない。社会の公私生活がお互いに割合背反していない場合には、一方を以て他方を代表させることが出来る。即ち公的生活を以て私的生活を代表させることが出来るのである。事実又、私的なものを(公式に)代表するからこそ、公的生活は初めて公的生活なのだ。社会の公式表現と実質的な潜在情勢とが一致する社会は、幸福である。
だが大抵の場合、社会周知の潜在情勢は必ずしもそのまま公式な表現となっては現われない。現われないばかりでなく、寧ろ潜在情勢とワザワザ反対な表現が公式な社会特色として通用することが多い。尤もだからと云って、社会的公式表現が必ずしも潜在情勢を悉く詐って、デマゴギー一点張りの外出着をつけるということには限らぬ。潜在事情の如何に拘らず公式表現は公式表現で、それ自身の特有な真実を持っている。例えば世論にしてもそうだ。政府や自治体の声明とか発表とかは、勿論社会の公式な自己表現である。その社会がそういう声明や発表を公式にやらねばならぬということが、取りも直さずその社会の重大な実質の一つであり特色の一つに他ならない。だからそれが必ずしも嘘とは限らない。儀礼というものは抑々そういう性質の真実性を有っている。こういうものも世論でないとは云えない。だが又、公式には到底発現出来ないような併し周知の潜在的見解が、であるから真実でないなどと云うことは出来ない。公的には世間の表面には現われないような一種の「世論」というものも、大いにあるのである。公式には現われないから、私語となり囁きとなり又は「奴隷の言葉」となってしか現われないのを普通とする。もしくは形のない或る一種の世の中の空気として実感される。流言や飛語の母体は正にここにある。