文章の音律
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あらすじ(AIが作成しました)
近年の小説において、文章の音律が軽視されていると説く評論。思想の重要性は認めるものの、耳に響く音律を欠いた粗笨な文章では読者に真意が伝わらないと指摘する。著者は、言文一致体の形式や語尾の選択に拘泥せず、情景や人物の特性が読み上げられた際に音として正しく伝わるべきだと主張。文章は単に眼で見るものではなく、音律を通じて読者が情景を肌で感じ取れるものであるべきだと説き、真の文章における音律の必然性を論じる。
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近來の小説の文章は、餘程蕪雜になつたやうに考へられる、思想が大切であるのは言ふまでも無いが、粗笨な文章では思想が何んなに立派でも、讀者に通じはしまい、感じはしまいと思ふ。就中近頃の小説の文章に、音律といふことが忽にされて居る、何うして忽せ處ではない、頭から文章の音律などは注意もしてゐないやうに思ふ。予が文章の音律と云ふのは、何も五七調とか七語調とか、馬琴流の文章や淨瑠璃の文章のやうなのをいふのでは無い。予は今の文章が眼にのみ訴へて、耳に聞かす文章でない、耳に聞かすなどいふ事を考へてもゐまいかと思ふ。此間も或新聞社の人に話したが、言文一致體の語尾の「だ」と「である」との事で、予は「だ」といふと強く當り過ぎると思ふ。文章であるから、對話とは違ふから好いが「だ」では、讀者に失禮なやうな心地がする。「である」ばかりを、使へもせぬが、此の方が好い、予は何もさう窮屈に考へずとも、「なり」でも「けり」でも使つて可い、文の前後で不調和にならなければ可いと思つて居る。往々言文一致の文章では、莊嚴とか崇重とかいふ趣が出ないやうに言ふ人があるが予は強ちさうではないと思ふ、例へて見れば、例の「……皇國の興廢此一戰にあり」といふ文を、言文一致に解釋して、「此一戰にありだ」といへば言文一致體、「あり」では言文一致でないと言ふのは何うであるか、「……此一戰にありだ」の「だ」を省いたと見ても可いではあるまいか、總て此處等は自由に行きたい。