うつせみ
本文約8,000字 ・ 読了時間 約17分
あらすじ(AIが作成しました)
小石川植物園に近い貸家へ、太吉と名乗る男に連れられ、病に伏せる娘・雪子とその家族が移り住む。かつては裕福な家庭で育った雪子は、心身の不調からかつての恋人・植村の名を呼び、狂気と正気を繰り返しながら日々を過ごす。看病する両親や兄の正雄は、娘の苦しみと衰弱を前に、病院への入院も躊躇いながら、せめて安らかな回復を願う。しかし、雪子の心は現実から離れ、亡霊のような植村の面影を追い続けて彷徨う。
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一
家の間數は三疊敷の玄關までを入れて五間、手狹なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は廣々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場處も小石川の植物園にちかく物靜なれば、少しの不便を疵にして他には申す旨のなき貸家ありけり、門の柱に札をはりしより大凡三月ごしにもなりけれど、いまだに住人のさだまらで、主なき門の柳のいと、空しくなびくも淋しかりき。家は何處までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人三人の拜見をとて來るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七圓五十錢といふに、それは下町の相場とて折かへして來るはなかりき、さるほどに此ほどの朝まだき四十に近かるべき年輩の男、紡績織の浴衣も少し色のさめたるを着て、至極そゝくさと落つき無きが差配のもとに來りて此家の見たしといふ、案内して其處此處と戸棚の數などを見せてあるくに、其等のことは片耳にも入れで、唯四邊の靜とさはやかなるを喜び、今日より直にお借り申しまする、敷金は唯今置いて參りまして、引越しは此夕暮、いかにも急速では御座りますが直樣掃除にかゝりたう御座りますとて、何の仔細なく約束はとゝのひぬ。お職業はと問へば、いえ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧の答へなり、御人數はと聞かれて、其何だか四五人の事も御座りますし、七八人にもなりますし、始終ごたごたして埓は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れ[#「日暮れ」はママ]がたに引移り來りしは、合乘りの幌かけ車に姿をつゝみて、開きたる門を眞直に入りて玄關におろしければ、主は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど、乘り居たるは三十許の氣の利きし女中風と、今一人は十八か、九には未だと思はるゝやうの病美人、顏にも手足にも血の氣といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白きがいたましく見えて、折柄世話やきに來て居たりし差配が心に、此人を先刻のそゝくさ男が妻とも妹とも受とられぬと思ひぬ。