黒い魔物
そいつは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。
「黒い魔物」のうわさは、もう、東京中にひろがっていましたけれど、ふしぎにも、はっきり、そいつの正体を見きわめた人は、だれもありませんでした。
そいつは、暗やみの中へしか姿をあらわしませんので、何かしら、やみの中に、やみと同じ色のものが、もやもやと、うごめいていることはわかっても、それがどんな男であるか、あるいは女であるか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとはわからないのだということです。
あるさびしいやしき町の夜番のおじさんが、長い黒板塀の前を、例のひょうし木をたたきながら歩いていますと、その黒板塀の一部分が、ちぎれでもしたように、板塀とまったく同じ色をした人間のようなものが、ヒョロヒョロと道のまんなかへ姿をあらわし、おじさんのちょうちんの前で、まっ白な歯をむきだして、ケラケラと笑ったかと思うと、サーッと黒い風のように、どこかへ走りさってしまったということでした。
夜番のおじさんは、朝になって、みんなにそのことを話して聞かせましたが、そいつの姿が、あまりまっ黒なものですから、まるで白い歯ばかりが宙にういて笑っているようで、あんなきみの悪いことはなかったと、まだ青い顔をして、さも、おそろしそうに、ソッと、うしろをふりむきながら、話すのでした。
あるやみの晩に、隅田川をくだっていたひとりの船頭が、自分の船のそばにみょうな波がたっているのに気づきました。
星もないやみ夜のことで、川水は墨のようにまっ黒でした。ただ櫓が水を切るごとに、うす白い波がたつばかりです。ところが、その櫓の波とはべつに、船ばたにたえず、ふしぎな白波がたっていたではありませんか。
まるで人が泳いでいるような波でした。しかし、ただ、そういう形の波が見えるばかりで、人間の姿は、少しも目にとまらないのです。
船頭は、あまりのふしぎさに、ゾーッと背すじへ水をあびせられたような気がしたといいます。でも、やせがまんをだして、大きな声で、その姿の見えない泳ぎ手に、どなりつけたということです。
「オーイ、そこに泳いでいるのは、だれだっ。」