一
何の因縁によるのか、ここでも上手の白物と下手の黒物とが対峙する。対峙するというより、むしろ白物のみが存在するという方がいいかもしれぬ。黒物の方は振り向く者がない。薩摩焼といえば、今は白陶器に定まっている。店に並べて窯の名を誇るのも、遠く海外に出て名を博したのも錦襴手のその白物である。近い鹿児島の街ですら黒物はほんのわずかよりしか扱わない。白釉の方は膚が柔かで色温く、誰もの嗜好に投じると見える。黒ではすまされず、白を追う心がここまで来たのだといえる。今ではそれが薩摩焼のほとんど凡てである。
だが薩摩焼はこれだけではない。今も七個の窯を擁して黒物が焼ける。ただ位が低くいずれも並の雑器であるから、これで苗代川を語る者はない。だがこの方が実は歴史が古い。今は三百余年の昔、文禄の役後、一と群の鮮人たちがつれられて来て、窯をこの苗代川に卜した。累代の墓碑が南に面して日光を浴みながら今も建っているから、ここが始めから定住の地だった事が分る。その最初の頃作ったものを「古薩摩」と呼んで珍重する。得難いその「古薩摩」は実はほとんど皆黒釉である。
歴史を振り向けば、窯は三段の経過を踏んだと思える。第一は今いった「古薩摩」である。これを「黒薩摩」と呼んでもいい。庶民の用いる雑器が主要なものだったと思える。文禄慶長の頃より降る事凡そ三十年、寛永の頃新に作り出されたのが白釉の陶器である。茶道の需めで、茶礼の器物がその重要な品目であった。人々はこの頃のものを「白薩摩」と呼ぶ。だが更に降って寛政に至り、その白陶は錦襴の絵附を受け、「絵薩摩」へと進んだ。綵紋のあるこの雅器は、広く声価を得て今日に及んでいる。それ故苗代川には現に二つの異る陶器が対峙する。一方は雑器として永く続く黒物である。一方は雅器として発達した白物である。
二